わたしの親しい人、
仕事の仲間、
行きあう人。
身の回りのもの、
部屋、
家、
庭、
まち、
自然。
それらは、わたしの一部です。とても大事な一部で、それなくしてわたしは生きられません。
身の回りの世界を愛することなしに、よき生、充実した生、楽しい生はないはずです。
わたしは、我孫子に住んでいますが、とても美しい場所がたくさんあります。いつも手賀沼遊歩道を歩き、水辺の様子を楽しみます。手賀沼周辺だけでも豊かな世界が広がり、飽きることがありません。季節の変化も面白く、春は空気が光りに満ち、輝いています。萌え出る野草と共に。
いま、手賀沼一周サイクリングをしてきて、おいしいコーヒーを飲んだところ(笑)。
わたしは、音楽を愛していますので、音楽を聴く部屋を大事にしています。ただ一般的な奇麗や豪華ではなく、心の満足を求めていろいろ工夫し、楽しみます。いま、ガーディナー指揮、古楽器によるベートーベンの交響曲3番「英雄」を聴きながらこれを書いています。大好きな曲で、1000回くらい聴いたと思います。数え切れないほどのLPとCDを聴きましたが、わたしの愛聴するのは、クレンペラー盤とラトル盤とこのガーディナー盤です。
昨年、「私風景」と名付けて、部屋の一部と全体、家や庭を撮った小さなアルバムをつくりました。「お気に入りのものたち」と名付けて、『白樺教育館』の入口には、4枚の四切の組写真も展示しています。「善美は、どこか遠くにあるのではなく、身近なものにこそ宿る。」と書き添えてあります。
自分が普段生活している空間に無頓着な人、
自分の住んでいるまちのよさ、美しさを知らず、感心を持たない人もいますが、
それは、間違いなく「不幸な生」です。
自分の一部、それなしには生きられない「身の回りの世界」を愛さずに、よき生、美しき生、幸福な生がもたらされることはありえないでしょう。これは原理のはず。
わたしは、わたしが生まれ育った地域や国を愛しています。
ただし、もちろん、それは国粋主義とは無縁です。わたしは、世界のさまざまな文化に関心をもち、親しみを感じています。
西洋が生み出した音楽はわたしの生きる糧で、それなしにはいられません。
全身に鳥肌が立つ美、深く納得できる思想、心に染み入る話、それらに国境などあるはずがありません。民族の違いも言葉の違いもありません。
しかし、そうした優れた文化をほんとうに深く豊かに知る=味わうことができるのは、自分の生きる世界―生活世界への愛がある人に限られるのではないでしょうか。
身の回りの世界を愛することのできない不幸な人がもつ想念・思想は、自分の歪んだ意識に対しての苛立ちの表出に過ぎないために、何の価値ももたず、自他に害を与えるだけです。「強制」されて育った人の社会批判は、ただ過激なだけで、よきものを何も生みません。
残念なことに、人類の文化は、厳しい戒律・強制=絶対神への信仰によってつくられてきたものが多いですが、未来の文化は、そのような一神教による圧力、脅迫神経症の下での文化ではなく、豊かな悦びの思想―人間性の全的な肯定と共にあるようにしたいものです。そのための基本条件が、身の回りの世界にこそ善美は宿るという思想であり、身の回りの世界を愛する日々の生活なのだと思います。
身の回りの世界、わたしが置かれた状況を引き受けるという「責任の哲学」が自由を価値あるものとし、幸福を生み、未来を拓く、わたしはそう考えています。
武田康弘
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コメント
すかぶら
2011年04月24日 19:37
歩く速度を少し落として、
時速3㎞のまなざしなら、
些細なものかも知れませんが、
素敵なものに出会えます。
あとはシャッターを切るだけ!
ーーーーーーーーーーーーーーー
ラルゴ
2011年04月24日 20:17
非常時の今だからこそでしょうか、心に染み入りました
いつも気付きをくれるタケセンさんの日記を楽しみにしています。
ーーーーーーーーーーーーーーー
C-moon
2011年04月24日 21:48
福島第一の事故で、多くの方たちが避難生活を強いられています。
日本国中で、放射能物質の危険性が語られています。
こうした中で、放射性物質の影響を受けやすい、幼児、児童、妊婦を抱える人たちが、なぜもっと遠くに避難しないのか!
子どもたちだけでもなぜ避難させないのか!
福島の人たちは、政府の言いなりになっているだけの愚民ではないか……
そんな事が、平気で語られている現実があります。
しかしどうなんでしょう。避難したくてもできない経済的な問題もあるでしょう。それ以上に家族を引き離されたくない、生まれ育ち生活をしてきた地域への愛情があると思うんです。
タケセンさんが、言われているように身の回りの世界を愛しているんです。
だからこそ、危険覚悟でギリギリ回避しながら避難生活をしたり、避難地域でない人たちもそこに留まっている。
命と健康が最優先されることは、共通の認識で、そんなことは他人に言われなくても解っていし、賢愚のレベルの話じゃないと思います。
はい!そうですか。と言って簡単に離れられるものではありません。
そこをしっかり見つめていかないことには、福島原発の危機が収束したとしても、原発問題はいつまでたっても解消しないと思います。
根源的なことですから。
小出裕章、京大原子力研究所助教は、40年近く反原発を訴えてきましたが、福島の避難について、最終的に決めるのは家族だ……仰っています。
タケセンさんが仰るように、小出さんも身近なすべてのものへの愛情をその理由にあげています。
だから僕は、小出さんを信じることができるのです。
仕事の仲間、
行きあう人。
身の回りのもの、
部屋、
家、
庭、
まち、
自然。
それらは、わたしの一部です。とても大事な一部で、それなくしてわたしは生きられません。
身の回りの世界を愛することなしに、よき生、充実した生、楽しい生はないはずです。
わたしは、我孫子に住んでいますが、とても美しい場所がたくさんあります。いつも手賀沼遊歩道を歩き、水辺の様子を楽しみます。手賀沼周辺だけでも豊かな世界が広がり、飽きることがありません。季節の変化も面白く、春は空気が光りに満ち、輝いています。萌え出る野草と共に。
いま、手賀沼一周サイクリングをしてきて、おいしいコーヒーを飲んだところ(笑)。
わたしは、音楽を愛していますので、音楽を聴く部屋を大事にしています。ただ一般的な奇麗や豪華ではなく、心の満足を求めていろいろ工夫し、楽しみます。いま、ガーディナー指揮、古楽器によるベートーベンの交響曲3番「英雄」を聴きながらこれを書いています。大好きな曲で、1000回くらい聴いたと思います。数え切れないほどのLPとCDを聴きましたが、わたしの愛聴するのは、クレンペラー盤とラトル盤とこのガーディナー盤です。
昨年、「私風景」と名付けて、部屋の一部と全体、家や庭を撮った小さなアルバムをつくりました。「お気に入りのものたち」と名付けて、『白樺教育館』の入口には、4枚の四切の組写真も展示しています。「善美は、どこか遠くにあるのではなく、身近なものにこそ宿る。」と書き添えてあります。
自分が普段生活している空間に無頓着な人、
自分の住んでいるまちのよさ、美しさを知らず、感心を持たない人もいますが、
それは、間違いなく「不幸な生」です。
自分の一部、それなしには生きられない「身の回りの世界」を愛さずに、よき生、美しき生、幸福な生がもたらされることはありえないでしょう。これは原理のはず。
わたしは、わたしが生まれ育った地域や国を愛しています。
ただし、もちろん、それは国粋主義とは無縁です。わたしは、世界のさまざまな文化に関心をもち、親しみを感じています。
西洋が生み出した音楽はわたしの生きる糧で、それなしにはいられません。
全身に鳥肌が立つ美、深く納得できる思想、心に染み入る話、それらに国境などあるはずがありません。民族の違いも言葉の違いもありません。
しかし、そうした優れた文化をほんとうに深く豊かに知る=味わうことができるのは、自分の生きる世界―生活世界への愛がある人に限られるのではないでしょうか。
身の回りの世界を愛することのできない不幸な人がもつ想念・思想は、自分の歪んだ意識に対しての苛立ちの表出に過ぎないために、何の価値ももたず、自他に害を与えるだけです。「強制」されて育った人の社会批判は、ただ過激なだけで、よきものを何も生みません。
残念なことに、人類の文化は、厳しい戒律・強制=絶対神への信仰によってつくられてきたものが多いですが、未来の文化は、そのような一神教による圧力、脅迫神経症の下での文化ではなく、豊かな悦びの思想―人間性の全的な肯定と共にあるようにしたいものです。そのための基本条件が、身の回りの世界にこそ善美は宿るという思想であり、身の回りの世界を愛する日々の生活なのだと思います。
身の回りの世界、わたしが置かれた状況を引き受けるという「責任の哲学」が自由を価値あるものとし、幸福を生み、未来を拓く、わたしはそう考えています。
武田康弘
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コメント
すかぶら
2011年04月24日 19:37
歩く速度を少し落として、
時速3㎞のまなざしなら、
些細なものかも知れませんが、
素敵なものに出会えます。
あとはシャッターを切るだけ!
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ラルゴ
2011年04月24日 20:17
非常時の今だからこそでしょうか、心に染み入りました
いつも気付きをくれるタケセンさんの日記を楽しみにしています。
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C-moon
2011年04月24日 21:48
福島第一の事故で、多くの方たちが避難生活を強いられています。
日本国中で、放射能物質の危険性が語られています。
こうした中で、放射性物質の影響を受けやすい、幼児、児童、妊婦を抱える人たちが、なぜもっと遠くに避難しないのか!
子どもたちだけでもなぜ避難させないのか!
福島の人たちは、政府の言いなりになっているだけの愚民ではないか……
そんな事が、平気で語られている現実があります。
しかしどうなんでしょう。避難したくてもできない経済的な問題もあるでしょう。それ以上に家族を引き離されたくない、生まれ育ち生活をしてきた地域への愛情があると思うんです。
タケセンさんが、言われているように身の回りの世界を愛しているんです。
だからこそ、危険覚悟でギリギリ回避しながら避難生活をしたり、避難地域でない人たちもそこに留まっている。
命と健康が最優先されることは、共通の認識で、そんなことは他人に言われなくても解っていし、賢愚のレベルの話じゃないと思います。
はい!そうですか。と言って簡単に離れられるものではありません。
そこをしっかり見つめていかないことには、福島原発の危機が収束したとしても、原発問題はいつまでたっても解消しないと思います。
根源的なことですから。
小出裕章、京大原子力研究所助教は、40年近く反原発を訴えてきましたが、福島の避難について、最終的に決めるのは家族だ……仰っています。
タケセンさんが仰るように、小出さんも身近なすべてのものへの愛情をその理由にあげています。
だから僕は、小出さんを信じることができるのです。