思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

武田哲学へのインタビュー  差異と対立の違いは?  内田卓志    否定ではなく、対立を。

2015-06-16 | 恋知(哲学)

 武田先生の実存の思想、たいへん魅力的です。長年の先生の思索の跡が分かります。繰り返し読みましたが、先生の考えられている 「実存」と私の思っている「実存」には隔たりがないことを確認できました。
 

  実存とは、「自覚存在」であり、その自覚とは生の原理(ただ一人の私が生きるという明晰な確信を持て生きること、生の意味充実をめざし生きること) を自覚するということ。その自覚を通して生活すること、生きることからはじめて私と他の私(他者との協力・協働(共働)が可能となるのですね。

  私見ですが、ここで注意したのは、協力、協働(共働)が先立つわけではないことだと思います。(このテー マは、後で個人と社会のテーマで伺う予定です。)
そこで、先生は、以前、各自の「対立」 (実存と実存の対立)は、ただの「差異」ではないと言われていました。そのあたりからはじめて、ぞの後で先生の教育論を語って頂きたくお願いします。

 内田卓志

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 内田さん、いつもありがとう。   

 わたしの実存思想はラディカルであると評されることがありますが、内田さんも賛同されたように、特定の主義によらずにちゃんと考えれば 誰でも納得できると思います。実存思想のみならず公共思想においても出発点は「私」です。それ以外にはありえません。「私」からの出発の自覚、「私」の深い 納得(腑に落ちる)を目がけること、これはフィロソフィの原理中の原理です。

 では、次に「差異」(差別という価値 意識をともなう違いではなく、色の違いのように上下関係にはない違いの意味)と「対立」の相違についてのご質問にお応えします。

 互いの違い=「差異」を認めよう!尊重しよう!とはよく言われますが、「対立」を尊重しよう!とはなかなか言われませんね(笑)。
 違いは違いでよいわけですが、違いは、ぶつかりになることもあります。そのぶつかりを避けようとして「互いの尊重」という言葉=思想が持ちだれることがありますが、それではただバラバラに個々があるだけで、生産性がありません。何も生まず、心の内からの悦びも出てきません。互いの発展=内的世界の豊穣 がありません。ひ弱な「私」になってしまいます。

 違い(差異)をほんとうに尊重するならば、「対立」が出るはずです、違うから避ける、とか、更には無視するというのではヒドイこと。わたしは、こう感じ、こう考えるけれど、あなたはどう思う?と言えば、「なるほどね」、という場合もありますが、「それはおかしなこと」、という場合も生じます。

 ぶつかりを避ければ、必ず、形式上の上位者が勝ちます。ぶつかれば、内容の検証になりますが、ぶつからなければ、形式上の上位者に従うほかなくなります。現代ではぶつからずに上手に!という哲学もどきの処世術が哲学を名のり、そういう類の書物ばかりが売れますが、これは、フィロソフィの自殺行為です。見事な(笑)詐術です。詐術としての哲学=上位者に従うことを正当化する哲学とは、ブラックジョークの極!

 対立しなければ、ほんとうに優れた考えが生まれ出ることはありません。進歩もありません。対立はとて大事で、必要なものです。ただし、対立は「否定」ではありません。もちろん影口とは正反対のもの。否定する・相手を潰そうというのではなく、対等な存在同士として「対立」することが大切です。権力を持った人が、その権力により、丸腰の他者と対立することは、対立ではなく、否定になります。それは酷い悪行です。互いの対等性と自由を認め合う者同士が「対立」することがとても大切で、それはよく生きるために必須の営みです。

 だから、会社でも、会議の場面においては無礼講が必要で、社長など上位者への批判がよろこばれるー歓迎されるようにすることが大切です。ずいぶん昔ですが(25年ほど前)わたしのこの思想を実践した日本オラクル(株)は、驚異的な成功をしました。株式上場は1999年2月(会社創立は1989年)ですが、1987年1月からわたしの哲学の生徒+友人であった佐野力さん(初代社長・会長)は、武田フィロソフィを会社で実践したのでした。成長どころではなく爆発!しましたよ。

 
教育一般については、この後で。

 否定ではなく対立。これがキーワー ド。


武田康弘

(クリックで拡大・ウイリアム・ブレイクの版画・白樺教育館所蔵)

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