思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

日本人のやることはすべて嘘。 外面、比較、他者との競争でしかない。

2017-10-16 | 恋知(哲学)

学校に行けば、勝ち負け、何番で、比較ばかり。

音楽や美術も、楽しいから、わたしがやってみたいから、という心の内側からのものではなく、比較、競争、コンクール主義。 勝ち負け、うけるか否かの世界。
NHK交響楽団の人たちの固くこわばった顔、内から湧き上がるよろこびとは無縁の演奏。
それを公共放送という名のテレビで流し続ける。まるで洗脳のよう。

生きること自体を問う「恋知(哲学)」の文化はなく、学校ではそういう時間はゼロ。代わりに「道徳教育」とは恐れ入る。自己存在に向き合い、人間とはなにか、人間の存在と存在仕方について思考する、繰り返し問い直すという生きる上で一番大事な作業はしない、ので、

「そんなの分かんな~~い」「話が長くてつまんな~~い」「要するになんなの?」「時間の無駄!」「どうでもいいから出世して儲かる方法教えてよ」「善悪の一覧表でも作って」というような笑えない笑話の次元の人が続出で、それで当然という風潮。

言葉ではいいことを言う人も、本音(日々の生活仕方・価値観)は、五十歩百歩です。

「日本に哲学なし」とか「日本人は生まれながらに哲学とは無縁」といわれて久しいですが、目の前主義で「外面人間になる努力」以外は知らないで生きる人の集団が日本人だとしたら、言葉を失うほど悲しいこと。

 日本にあるのは、ただの事実学の累積と技術知だけかもしれません。
哲学までもその延長で、西ヨーロッパの近代哲学(キリスト教化された視点から解釈されたギリシャ哲学も含む)の書物の読解が哲学と思われているようです。それでは、大学教授の職業テツガクにすぎません。

自分が感じ想うところから、自分の頭で考えるという人間の人間的な生がフィロソフィー(恋知)なのに、その基盤・土台が脆弱なために「情報」や「書物」に頼り知ったかぶりをするのはヒドイ話です。これを読んでいるあなたも要注意! フィロソフィー(恋知)なしに生きるなら、それは人間の人間としての生ではありません。いまの暗記とパターン知のテストで満点を取るような人は、この基盤がない証拠です。

恋知とは、知識ではなく、誰でもがもつ自分の固有の精神世界を豊かにしていく日々の実践です。自分が感じ、想い、考えるのですから、誰でもいつでもできますが、その方向(沈思と自問自答)への教育がなく、個人の努力がありません。それなくしては意味のある対話は成立せず、ただ、相手に勝つ話法と部分知識ばかりの不幸な世界。豊かな人間、人間味ある人間、内から湧き上がるものをもつ人間にはならず、比較、競争、勝負、受け狙い(「他者承認」に怯える強迫神経症者)の外面人間になるだけです。

それならば、「日本人のやることはすべて嘘」になります。心の内から湧き上がるものがないままに「優秀」な人になる!?芸術家になる~???みな「芸を仕込まれたアシカ」になるだけです。なんともヒドイ話ですが、相当程度現実です。人間、人間、人間になりたいものですが、右派(もうほとんど右派?)の政治家たちは、「人類や人間という抽象的な話ではなく、日本人としての自覚を持たせる学校教育」と言い、そのための教育改革を進めています。

ますます「日本に哲学(=個々人の豊かな独自精神)なし」。 変えましょう、まずは、自分から。「エリート」と呼ばれる人ほど、恋知(自分の精神世界)を持ちませんが、それに無自覚です。人間になりたいものです。


  武田康弘 2017.10.15

 

 

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