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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

グラン・トリノ 対 ヤマハの原付

2012-03-08 19:17:45 | 映画


勢いでイーストウッド監督の「グラン・トリノ」を見てしまった……。だいたい「グラン・トリノ」と言われて何も頭に浮かばなかったわたくしがこの映画の神髄を分かるかどうかかなり怪しい。この映画のDVDのおまけ映像は何かな、やっぱりみんな移民問題とかカトリック問題について語っているのか、と思いきや、「男たるもの車好き」みたいな特集映像であった。イーストウッドをはじめ、最後に無防備の老人を彼がてっきり拳銃を出すと思って蜂の巣にしてしまうような超絶馬鹿ギャングどもの俳優までが「ぼくはこんな車が好き」とか語っていた。わたしは何のことやらさっぱりである。車の種類といえば、「クラウン」と「ランボルギーニカウンタッコ」(いやまちがえた「カウンタッキ」だっけ?「カウンタッチョ」だっけ?もうどうでもいいわ)とか、えーと後何かあったか、あ、アメリカ人がナンパによく使う「便ツ」!……こんな程度であるわたくしがいきなり「1972年型グラントリノ」とかしらんわ。

グラスルーツ右翼のイーストウッドのことである、「グラン・トリノ」が何かそんな思想とシンクロするところがあるんだろう。車を売るのではなく車を作ることへの愛着がアイデンティティと関係していた時代があったのかもしれない。この車をモン族の少年に譲り渡す主人公はそんな感覚や思想を譲渡したとみてよろしい。たぶん……。ちなみに私は、ヤマハの原付の方がかっこいいと思う。

……という話はどうでもよいとして、この映画は、イーストウッドがフィクションの世界で犯してきたグラスルーツの正義のための大量殺人を反省し、その懺悔を教会にせずにマイノリティーの少年にしたうえで、マイノリティーの中にいる超絶馬鹿ギャングに蜂の巣にされることで、彼自身がキリストになる話である。主人公の老人は、ポーランド移民の朝鮮戦争帰りの元フォード社員。彼は命令か否かはよく分からんが、朝鮮戦争で少年を撃ち殺した経験がある。そういう彼と仲良くなるのは、ベトナムから追い出されてきたモン族の少年。しかしこの少年と姉を虐めているのは、同じモン族のギャングとか黒人とか。普段仲良くしているのは、トヨタに勤める息子家族ではなく、イタリア系床屋とかアイルランド系土建屋とか……(ともにたぶんカトリック。当然彼もポーランド系だからカトリックだろう)。この状況で、いかにそのギャングどもが超絶馬鹿で少年の家を襲撃し、姉をレイプしようとも、主人公の老人が誰を殺せるであろうか?ポリティカル・コレクトネスの思考になれた我々は、そう考えてしまう。ただし、逆に、表向きは誰をも市民として扱いそのじつ差別に対しては現状維持にコミットし続けるのも我々である。(アメリカではもっと状況は過酷だろうが……。)最後に、復讐に行くと見せかけて、老人が命を投げ出してしまうのは、学校も就職もままならない虐げられた(かつて自分が殺した)アジア人に撃たせようという贖罪である一方で、「相手はどうせ超絶馬鹿なので絶対自分を撃つ」と確信できたからであって、ここに一点、「馬鹿は死んでも治らん」という差別が潜んでいなくはない。たぶん、現実にはそこまで後先が見えない馬鹿は少数で、彼らはもっと小狡い手に出るのではなかろうか。上の「ポリティカルコレクトネスを信奉する差別主義者」のやるように。ただ、無抵抗の抵抗で暴力を終わらすことも必要だということすら分からない連中には、こうやって分からす他はないのだと言っているように見えた。

というわけで、この映画にプロテスタント白人とそれほど馬鹿でもないギャング達を出演させ、老人を「グラン・トリノ」よりヤマハの原付が好きだという設定にすれば、この話は崩壊する。で、実際、そういう設定の方が現実に近いのではなかろうか……。いい話なんだけどな、この映画。日本もポストコロニアリズムとか勉強したんだからさ、A×Bを映画に出してないで、こういう映画出てこないかなあ。

長野県最強伝説

2012-03-08 06:13:49 | 旅行や帰省


愛郷心0の私もよく飲んでいる「御岳百草丸」である。私の田舎の製薬会社がつくっておる。長野県ではめっぽう有名なこの薬である。私も胸焼けとか膨満感によくきくような気がするんですが、いかがでしょう。最近、タレントの中川翔子さん(しょこたん)もよく飲んでいるという情報が、彼女本人からもたらされたらしく、長野県民(のなかのオタク)が狂喜乱舞したという噂である。オタクの行動力を侮ってはならない。これで、全世界の胃弱オタクが百草丸に殺到する日も近い。

……それはともかく、母によると、母の幼少期における(近所の)かかりつけの医者はすべての病気を「胃腸が悪い」ということにしていたらしい。この論法で行くと、長野県民はすべての病気が百草丸で治ると思っている可能性がある。ここで長野県に残る伝説をおさらいしておこう。

1、長野県は仮の姿である。本当は「信州」である。(「神州」でもよい)つまり本当は日本の一部ではなく、アメリカの「州」のひとつである。すなわち、戦後の日本はアメリカの属国であるというより長野県の属国である。

2、長野県民は、「信濃の国」を全て歌える。「君が代」は歌ったことがないのに「信濃の国」は歌える。大阪でなくても、信濃の国の前奏で左翼もいきなり立ち上がる。

3、県が分裂の危機の時、──県議会で喧嘩している議員の耳に部屋の外から「信濃の国」の合唱が聞こえた。つい議員達もつられて涙ながらに大合唱してしまい、分裂の危機を乗り越えた。

4、長野県は日本の中心である(位置的に)。戦時中、大本営も松代に移ったことがある。このときに実質的に東京から遷都したとみてよい。

5、日本で一番高い山は、長野県に存在する。富士山とかしょぼい山がどこかにあるらしいが、長野県にある山の高さを全て足せば、その富士山とやらはゴミみたいなものである。

6、日本の文化は長野県が支えている。①岩波茂雄が岩波書店をつくったから。②「信州白樺」など、大正デモクラシーぐらいの思想をいまだに守っている団体があるから。③長野高校・松本深志高校など、全国区エリート校が多い。たぶん東大生は全員ここの卒業生である。日比谷とか麻布とか灘とか、どこの中学ですか?④全国の教員委員会は、すべて長野県教育委員会の指示で動いている。長野県民は東大がダメなら信州大学に行くからである。⑤エロ小説作者を県知事にしてしまうほどリベラルである。ちなみに、その次の知事も、和光大学にいた有名な学者の兄貴なのでまったく問題はない。

7、長野県民は主食が米ではなく蕎麦である。ちなみに魚があまりとれないので、蝗で代用した。食文化においても日本のマジョリティのはるか先を行っている。

8、万葉集の東歌(野蛮人の歌)に長野県が歌われているとの噂は、京都人が長野県民に嫉妬した結果である。

9、平家政権を実質倒したのが木曽義仲であるにもかかわらず、源頼朝が嫉妬して歴史を捏造した。ちなみに義経は長野県民である。あの小さい体は、田舎者にしかあり得ない。

10、長野県に海がないというのは、嘘である。なぜなら、海の水は長野県が製造して流してやっているからである。海が生命の母であるというなら、長野県こそ母の母である。

11、例の「アップル社」やビートルズのレーベル「アップル」は、長野県の名産物の「リンゴ」の剽窃である。

12、長野県民であるかそうでないか正確に見分ける方法がある。長野県民は、百草丸を数えなくても眼見当で正確に20粒服用できる。つまり長野県民以外は数学が出来ないとみてよい。というより、数学は長野県民以外の人達のために開発されたのである。

マネジメント 対 母なる証明

2012-03-08 03:45:25 | 思想


先日、ある人から私がドラッガーのいう「マネジメント」が出来ていると言われたので、猫の耳が兎の耳になるほど驚いた。人間、長く生きてるといろいろなことがあるものである。だいたい少なくとも私にとって、普段から「イノベーション」だの「コミュニケーション」だの「知識労働者」だのと連呼している人間はただのアホだからである。(ちなみに全部言い換えられるぜ。「革命」、「スパイ活動」、「前衛」。)彼らは「マネジメント」どころではなく「マネ」しかできない。上の写真は、エッセンシャル版だけれども、すごく昔に図書館で元の大著の『マネジメント』を読んだ時には、猛烈に睡魔が襲い途中で寝てしまった。誰でも言うことであるし、彼自身も言うことであるが、ドラッガーにとってナチスとかの全体主義での体験が大きい。彼にとって、「マネジメント」は全体主義への対抗手段であり、それ以外の何物でもない。この姿勢は、いまやファシスト並みにたくさんいるプチ・ドラッガー主義者の、やたら「上から目線」とやらを敵視する傾向に受け継がれている(根拠は全くない)。私の興味は、仮想敵「全体主義」がなくなった世界で、意図せず彼らが全体主義者と化してしまうプロセスであるが、そのためにはこの「マネジメント」を成り立たせているイデオロギーの分析を経なければならないのではなかろうか。

今回、このエッセンシャル版を斜め読みした印象では、要するに、これは「企業人の躾書」ではないか、と思った。彼が力を込めて言うのは、「真摯さを絶対視して初めてまともな組織」ということである。また「何が正しいかより、誰が正しいかに関心を持っている者をマネージャーに任命してはならない」、「真摯さより、頭の良さを重視する者をマネージャーに任命してはならない」ともいう。そんなこと当たり前ではないか。ただし、確かにこの当たり前さが現実の組織にはまったく感じられない。ここあたりは、ドラッガーは完全に倫理を説くキリスト並に非現実的である(笑)。ドラッガー本人は知らないが、こういう説教をすぐさま実現できるものとして強制しようとするほど、人間の機微を知らない人間が全体主義者にもなんやらにもなってしまうのではなかろうか。コミュニケーションについてもドラッガーはこんなことを言っている。「無人の山中で木が倒れた時、音はするか」という公案にたいして、当然「否」である、聞くものがいなければ音はない、この音こそ、コミュニケーションである、と。私は違うと思う。木の倒れた音を人間の表現に喩える神経が分からない。……まあ、分からないではない、企業人にとって聴き手(買い手)が存在しないと考えるのは論外だからである。しかしそう考えたからといって、何かが生まれると考えるのはばかばかしい。ドラッガーはどうも比喩の持つ暴力性の問題をまったく分かっていないのではないか。ドラッガーがよく使う比喩だが、指揮者は企業のマネージャーの比喩にはならないと思う。指揮者を実際にやってみたことのないやつがこういうことを言う。どれだけの能力が必要かわかっているのか。私も知らんが。仕事の内実に対する畏怖がない人間が本当に真摯さを分かっていると言えるのであろうか。あと、根本的なことだけど、そのコミュニケーションがあったとして、それは根本的に相互に合意が成り立つとは限らないんじゃないかな、いや、常に合意はしていないとみるべきである。そのためにドラッガーが木と人間という喩えを使ったのならよく分かる。お互い我々は木と人間みたいなものだ。

要するに、私は思うのだが、──「躾書」は、子どもに対しては将来的にファシストを生む可能性すらあるが、ドストエフスキーやら大江健三郎やらに耽溺して引きこもりになってしまった人が、覚悟を決めるために読むぶんには無害である。

したがって、こういう本をめくった後は文学で是非解毒を……、というわけで、カフカの「ある学会報告」を読み始めたのだが、ちょっと世界が違いすぎたのでくらくらした。で、昨日借りてきた「母なる証明」という韓国映画をみた。監督は、「殺人の追憶」、「グエムル」で世界的に有名になってしまったらしいポン・ジュノである。確かに今回もすごかった。「家族の絆」で全体主義を謳歌している日本人全員を収容所に送り、この映画を鑑賞させよう。反全体主義のドラッガーがそう言っている、と私のなかのドラッガーが言っていた。