
勢いでイーストウッド監督の「グラン・トリノ」を見てしまった……。だいたい「グラン・トリノ」と言われて何も頭に浮かばなかったわたくしがこの映画の神髄を分かるかどうかかなり怪しい。この映画のDVDのおまけ映像は何かな、やっぱりみんな移民問題とかカトリック問題について語っているのか、と思いきや、「男たるもの車好き」みたいな特集映像であった。イーストウッドをはじめ、最後に無防備の老人を彼がてっきり拳銃を出すと思って蜂の巣にしてしまうような超絶馬鹿ギャングどもの俳優までが「ぼくはこんな車が好き」とか語っていた。わたしは何のことやらさっぱりである。車の種類といえば、「クラウン」と「ランボルギーニカウンタッコ」(いやまちがえた「カウンタッキ」だっけ?「カウンタッチョ」だっけ?もうどうでもいいわ)とか、えーと後何かあったか、あ、アメリカ人がナンパによく使う「便ツ」!……こんな程度であるわたくしがいきなり「1972年型グラントリノ」とかしらんわ。
グラスルーツ右翼のイーストウッドのことである、「グラン・トリノ」が何かそんな思想とシンクロするところがあるんだろう。車を売るのではなく車を作ることへの愛着がアイデンティティと関係していた時代があったのかもしれない。この車をモン族の少年に譲り渡す主人公はそんな感覚や思想を譲渡したとみてよろしい。たぶん……。ちなみに私は、ヤマハの原付の方がかっこいいと思う。
……という話はどうでもよいとして、この映画は、イーストウッドがフィクションの世界で犯してきたグラスルーツの正義のための大量殺人を反省し、その懺悔を教会にせずにマイノリティーの少年にしたうえで、マイノリティーの中にいる超絶馬鹿ギャングに蜂の巣にされることで、彼自身がキリストになる話である。主人公の老人は、ポーランド移民の朝鮮戦争帰りの元フォード社員。彼は命令か否かはよく分からんが、朝鮮戦争で少年を撃ち殺した経験がある。そういう彼と仲良くなるのは、ベトナムから追い出されてきたモン族の少年。しかしこの少年と姉を虐めているのは、同じモン族のギャングとか黒人とか。普段仲良くしているのは、トヨタに勤める息子家族ではなく、イタリア系床屋とかアイルランド系土建屋とか……(ともにたぶんカトリック。当然彼もポーランド系だからカトリックだろう)。この状況で、いかにそのギャングどもが超絶馬鹿で少年の家を襲撃し、姉をレイプしようとも、主人公の老人が誰を殺せるであろうか?ポリティカル・コレクトネスの思考になれた我々は、そう考えてしまう。ただし、逆に、表向きは誰をも市民として扱いそのじつ差別に対しては現状維持にコミットし続けるのも我々である。(アメリカではもっと状況は過酷だろうが……。)最後に、復讐に行くと見せかけて、老人が命を投げ出してしまうのは、学校も就職もままならない虐げられた(かつて自分が殺した)アジア人に撃たせようという贖罪である一方で、「相手はどうせ超絶馬鹿なので絶対自分を撃つ」と確信できたからであって、ここに一点、「馬鹿は死んでも治らん」という差別が潜んでいなくはない。たぶん、現実にはそこまで後先が見えない馬鹿は少数で、彼らはもっと小狡い手に出るのではなかろうか。上の「ポリティカルコレクトネスを信奉する差別主義者」のやるように。ただ、無抵抗の抵抗で暴力を終わらすことも必要だということすら分からない連中には、こうやって分からす他はないのだと言っているように見えた。
というわけで、この映画にプロテスタント白人とそれほど馬鹿でもないギャング達を出演させ、老人を「グラン・トリノ」よりヤマハの原付が好きだという設定にすれば、この話は崩壊する。で、実際、そういう設定の方が現実に近いのではなかろうか……。いい話なんだけどな、この映画。日本もポストコロニアリズムとか勉強したんだからさ、A×Bを映画に出してないで、こういう映画出てこないかなあ。