
立命館大学で行われた、間文化現象学プロジェクトワークショップ「間文化性の未来に向けて―精神/共存から時間・歴史へ―」に行ってきた。ハイデガーの共同体論とか動物論を論じていた古荘真敬氏の報告目当てで行ってみたのだが、氏の発表は当日に題名が変更されており、和辻哲郎のハイデガー批判をハイデガーとの共通性に於いて見てみたら?といった発表だったので、得をした気分である。和辻を昔読んだときの私の印象は、「間柄(笑)」といった感じであって、周りにもそんな人がいたと思う。しかし、共同体と個人の関係の再構築の気運に乗って、最近はだいぶ読み直しが進んでいるようだ……。しかし、そうなると、和辻が換骨奪胎したハイデガーのナチスがらみの例の話題には触れない訳にはいかず、ワークショップでもそこが論議されていた。私は、和辻の「風土」や「間柄」は、島崎藤村の情景描写みたいなもんだと思うのであるが、そこは私なりに考えてみたいと思った。
あと、村上靖彦氏や吉川孝氏の、看護やケアを現象学的に記述することと倫理の関係の議論も面白かった。わたしなど、文学のテキストは「所詮現実じゃないわな」と安心しているところがやっぱりあるのだが、看護やケアの現場を目の前して現象学をすることは、そもそも現象学とは何だったかを問い直すことになるのであろう。事象の記述とはそもそも可能なのか……、という感じである。しかし、完全に素人のわたしからみると、そのような本質的な議論を駆動する緊張感を現象学自身が求めているのだと思う。文学が戦争や病を求めるのと一緒である。村上氏の「今我々は個人個人が新興宗教を作っている。そういう面白い時代に我々は生きている」という言葉が印象的であった。確かに、「面白い」のかも知れない。本当は吉川氏が論じていたマックス・シェーラーの「愛」とやらも、シェーラーにとって見ればその「面白さ」の一種かもしれない。
近代文学の学会だったら、話が煮詰まったところで、「倫理は大切だ、というかイデオロギーも大切だ。ついでにハイデガーは許せん」とかいう、何故か怒り大爆発の発言がでてくるところであろう。さすが哲学の人達は違う。そんなことを言う人はいなかった……。