平川克美氏については何冊か読んだうち『移行期的混乱』で印象に残っている。たぶん、内田樹氏とともに知られてきた人ではなかろうかと思う。平野謙などが生きていたら、氏らをまとめて「新内向生活派」とか「新身体的実感派」とか呼ぶに違いない(笑)マッチポンプしておきながらなんであるが、そんなレッテルはどうでもよい。平野氏が対比するであろう(←もういいわ)柄谷行人とおなじく彼らの発想の元にあるのはマルクスであるが、読み方の違いがあるのである。あと、好きな作家の違いかな……。我々の世代が勘違いしてはならないのは、彼らは彼ら自身の世代に於いても孤立しているであろうということである。
今回の平川氏の『俺に似たひと』は、氏自身の父親を介護した体験を元にした私小説のような本であるが、「放蕩息子の帰還」や「和解」といった言葉が示すように、神話的な話を造形しようとして、──言ってみれば、ある種の感情的な規範?を表現しようとしたことが明白なように思われる。だから逆に、小説的行文の中に装入されるツイッターの記録が生々しく感じられる。ツイッターは神話と現実との通路を果たしているのである。ツイッターが嫌いなこともあって、私はその生々しさにそのツイッターの部分をじっくり読むことが出来なかった。しかし、その生々しさとは別の次元が、本の背後に広がっていることに気付く。それは、意外なほどほとんど語られていない、平川氏の父親の人生や平川氏自身の人生である。
「そういうことかと、俺は思った。一年半の間、介護を続けてきて、いちばん俺が必要なときに、俺はいなかったということか。
最も会いたいときには会えず、最も必要なことはついに語られないのが、ひとの世の常なのかもしれない。思い通りになる世の中などは、どこにも存在していない。」
介護の末に、病院に駆けつけてみたら、死に目にあえなかった時のせりふである。しかし、このせりふ以前にすでにこのことは語られていたはずである。以前、内田氏が「三丁目の夕日」を褒めていたのをみて、あの映画をつくった連中に近い世代のわたしとしては「あんなもん、嘘だらけですわ、想像ですわ」と思ったものだが、平川氏のやり方なら言わんとしていることは納得できる。故に、決してドラマや映画にしないで戴きたい。人の人生を滅茶苦茶にして欲しくない。あと、「恍惚の人」などを読んでからこの本を読むと好いのではなかろうか。平川氏の文体がいかに選択的であったかが分かろうというものである。たぶん……。