★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

素ぽこん二作

2012-03-28 05:11:17 | 漫画など


「六三四の剣」は妹2が勧めてくれたのでちょっと読んだ。一部では、剣道漫画の最高傑作とも呼ばれている。「3月のライオン」は、まだ終わってないが、いま一部で将棋漫画の最高傑作と呼ばれている。(あんまり対局の場面は詳しくないから、将棋好きには物足りないところもあろう、だから盛り上がってるのは将棋好きじゃないと思うが)

わたくしにいわせりゃどちらもある種の「素ぽこん」である。(「スポコン」の字面がなんとなくいやなので「素ぽこん」の方がいいと思う。)だってどちらも努力友情勝利の話だし……。題名の構造も似ている(笑)。昭和の「素ぽこん」には、みなしご的な不幸な境遇から這い出そうと一生懸命努力していたら、いつの間にか家族の誰かとか腕が死んだりして、勝利の代償が巨大化してゆく話も多い訳だ。「六三四の剣」もそうであろう。まだ一巻では誰も死んでないが、これからどれだけ死人が出ることか。幼少期の六三四はなぜ剣道一生懸命なのか分からない。両親もいるし。これじゃ剣道の天才の親の遺伝で六三四も……、というエリートの話になってしまう。というわけで、誰かがいずれ死ぬ。「3月のライオン」は、またみなしごたちの心の補完の話で、勝利よりも友情とか家族の問題が中心であるように見える。ただ、いじめの話題でも結局は勝利に近づいていくので「素ぽこん」かなあ……。この漫画は登場人物全員に読者が感情移入出来るようになっていると思う。だから頁を捲るたびにこちらの心が動く、素晴らしいです。対して「六三四の剣」の全人物に対して私は感情移入できなかった。竹刀がかわいそうと思ったくらいである。

ただ、やはり教育的にいえば、「六三四の剣」の方がよいかなあ。六三四ほどの天才でも他のことはまったく目に入らないほど猛練習できる才能がなれば、人間何かものにはならないからなあ。「3月のライオン」でもそういうことは言ってるが、どうも何かをがんばる気にはなれないのである。「六三四の剣」の読後感が「よしわたくしもがんばろう」なのに対して、「3月のライオン」の読後感は、「高城(←いじめっ子)さっさと×ね」といったような抑鬱感である。「いじめっ子にも内面はあるよね。でもだから何?さっさと高城(←いじめっ子)×ね」とかね……。フィクションですら、いじめっ子を単にぶっ飛ばすやつはいなくなった。いじめを復讐ではなくケアやなにやらで乗り越える話を描けば描くほど、この世の暗黒は増すばかりだ。いじめられっ子のいくらかが大人になってたちの悪いいじめをするようになるのもそのせいであろうか。確かにそれはそれで「がんばっている」のかもしれないが。