学生のレポート採点のために読みました。
吉本ばななは、彼女がデビューしてきたときに何かにつられて読んだが、たしか私は高校生だったと思う。彼女の本を読了した後は、勉強したり本を読んだりする気がなくなってしまい、それ以来、私はこういう作家のことを申し訳ないが萎靡系作家と呼んでいる。高校生の私にとっては村上春樹もその一味であった。最近、「ワークライフバランス」とかよく言われているが、どうも、萎靡系は、その「ライフ」とやらを無為の私生活とでも考えさせてしまうのではあるまいか。ライフは、炬燵で蜜柑食ったりデートしたりすることも含まれるかもしれんが、「ワーク」が金を得るために行う「仕事」だとすれば、「ライフ」は、自治活動とか
話が逸れたが、改めて吉本(よしもと)ばななを読んでみると、高校生の私が厭だったことが、ちょっと違う様相を呈していた。彼女の小説にあった少女漫画風のテイストをちょっと脇に置くとして、作者は我々の「何もしていない状態からの逃避」を禁じているだけなのかも知れない。作者の小説から我々は鏡に映ってさえいない状態での我々の姿を視るので厭なのである。鏡に映す時にはもうその行為自体に何か「逃避」がある。この前、村上春樹のマラソン体験記とか、小澤征爾との対談本を読んだが、どっちもまるで体調の悪い時の自分の思考そのものが書かれているような気がして本当に厭であった。村上春樹がマーラーを語る様子など、酔っぱらった私がくだを巻いているようであった。ここまで読者の姿を見通しているのはさすがである。
私は、『どんぐり姉妹』の末尾の文は、「どんぐり姉妹は今日も行く、と私は心の中でつぶやいた。」ではなく、「どんぐり姉妹は今日も行く。」の方がよいと思ったが、このよいと思った状態が、まさによしもとばななが書き付けた文章に出ているではないか(笑)さすがである。