★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ワークライフバランス 対 よしもとばなな

2012-03-06 04:37:45 | 文学


学生のレポート採点のために読みました。
吉本ばななは、彼女がデビューしてきたときに何かにつられて読んだが、たしか私は高校生だったと思う。彼女の本を読了した後は、勉強したり本を読んだりする気がなくなってしまい、それ以来、私はこういう作家のことを申し訳ないが萎靡系作家と呼んでいる。高校生の私にとっては村上春樹もその一味であった。最近、「ワークライフバランス」とかよく言われているが、どうも、萎靡系は、その「ライフ」とやらを無為の私生活とでも考えさせてしまうのではあるまいか。ライフは、炬燵で蜜柑食ったりデートしたりすることも含まれるかもしれんが、「ワーク」が金を得るために行う「仕事」だとすれば、「ライフ」は、自治活動とか宗教活動とか政治家をつるしあげにゆくとか、反原発デモにゆくとか、愛国者同盟の会合に出席するとか、子どもを教育するとか、そんなことも含まれるのである。「はやく帰って私生活」といったスローガンに、疲れた社畜より元気な社畜の方が便利(だいたい主婦業を馬鹿にしてるんじゃないのか?こういういい方は……。)といったイデオロギー、あるいは、仕事は手抜きでいいや精神が感じられるだけではない。前提として、上のような多様な活動に対する抑圧、ないしは多様な活動に対する想像力の欠如を感じる。多様な「ライフ」が認められたというより、それが抑圧されているから、「ワークライフバランス」とかが安心して流行るのではなかろうか。また、「バランスをとれ」という言葉の真の目的は、物事を真剣に考えている人間の足を引っぱることだった訳で、「みんながそうしてるんだから、お前もちょっとは譲歩しろ(俺=みんなの言うことを聞け)」と言っているだけの場合も多い。それは「中庸」とか「手打ち」ですらない。実際はどこかに仕事の押しつけが行われている。本人はバランスをとっているつもりでも、誰かがそのバランスを支えるためにバランスを崩して必死にフォローしているかも知れない訳だ。だいたい、ふつー、「ワーク」も「ライフ」も何でもそうだが必死にこなすのに精一杯で「バランス」をとっている場合ではないんじゃなかろうか。そうだ、「バランス」ではなく「綱渡り」なら分かる。これからは「ワークライフ綱渡り」にしよう!

話が逸れたが、改めて吉本(よしもと)ばななを読んでみると、高校生の私が厭だったことが、ちょっと違う様相を呈していた。彼女の小説にあった少女漫画風のテイストをちょっと脇に置くとして、作者は我々の「何もしていない状態からの逃避」を禁じているだけなのかも知れない。作者の小説から我々は鏡に映ってさえいない状態での我々の姿を視るので厭なのである。鏡に映す時にはもうその行為自体に何か「逃避」がある。この前、村上春樹のマラソン体験記とか、小澤征爾との対談本を読んだが、どっちもまるで体調の悪い時の自分の思考そのものが書かれているような気がして本当に厭であった。村上春樹がマーラーを語る様子など、酔っぱらった私がくだを巻いているようであった。ここまで読者の姿を見通しているのはさすがである。

私は、『どんぐり姉妹』の末尾の文は、「どんぐり姉妹は今日も行く、と私は心の中でつぶやいた。」ではなく、「どんぐり姉妹は今日も行く。」の方がよいと思ったが、このよいと思った状態が、まさによしもとばななが書き付けた文章に出ているではないか(笑)さすがである。