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先日、学部内のいろいろな研究者たちが集まって金森修の『科学の危機』の読書会を開いていたので参加してみたが、楽しかった。
わたくしは、金森氏が提唱する科学に対する「科学批判学」とは、文学そのものや文学研究に対する「文芸批評」みたいなものではないかと思っていた。何故かというと、それは「なんかよくわからんがそれはだめ」という判断を行うジャンルだからである。金森氏が言っている、科学者が毒ガスや原爆で道を間違わないようにするための指針のための「実存」というのは、「なんかよくわからんがそれはだめ」みたいなものであろう。
昨日も書いたが、我々は自分の思考を統御できない。科学における思考だって本当は、コントがいう風に実証・正確・有用などの「科学の古典的規範」に従うことはできない。しかし「規範」がないと思考もできない。しかも、このような不安定な関係を観察することもできないし統制もできないのである。その自覚がないと、自分の行為が合理的だと思い込んで……実際のところ、常軌を逸したレベルで思い上がった科学者というものはいるものである。しかも、そういう輩に限って、頭脳明晰でコミュ力があり、政府と社会の区別も付かない、複雑な人格をしている。
実際、ギボンズの謂うモード1(自律的な科学)とモード2(研究者集団の外部からのミッションで駆動する科学)の区別は、非常に曖昧である。(今日参加していた優秀な物理の人が言ってた……)
あるいは、研究者の存在の要件でもあるコミュニティの存在を考慮に入れて、×谷行人の「マクベス論」や「連合赤軍について」が論ずるみたいな、予言に対する競争の発生みたいなことも考えられるのであるが……いずれにせよ、研究者というのは自分が自覚する以上に夢のなかで徒競走をしていうようなものだろう。
というようなのが、好意的な見方であろう。
金森氏が、妻が自殺しても毒ガスを友軍を実験台にして開発した研究者をまるまる一章使って描いているということは、研究者というのは、ファウストではないが、本当に悪魔を魂を売っている可能性があることをまじめに言いたいのであろう、と思った。実際そうなのである。科学者も詩人も実際ところ、危険な人種なのだ。読書会のあとの懇親会でも述べたが、日本は「風立ちぬ」みたいに、ゼロ戦開発者を「いい人」みたいに描いてしまい、実際「いい人」だったかもしれないという感じがしてしまう文化風土があかん。
結局、勧善懲悪劇の復活が望まれるねというのが、わたくしの酔っ払った末の結論。