今年の「日本近代文学演習Ⅱ」は結構良いレジメが提出されたと思う。
その演習であつかった■田▼輝の『宝島の教訓』のなかに「空想科学映画」というコラムがある。そこでは、「ゴジラ」と「原子怪獣現る」が比較され、ハリウッドの近くに原爆でも落とせばより作品が良くなるのに、とか書かれている。また、武器をつくるのをやめれば、怪獣を家畜に出来るとも……。特に後者をどう解するのかはちょっと難しいのだが、それはともかく――、原爆でも落とされなければ傑作をつくれないのは、アメリカよりむしろ相変わらず我が国である。このコラムが書かれた頃、ハリウッドは赤狩りの時代だった。しかし、ハリウッドは、ゴタゴタしながらそれを自己批判する映画業界というイメージをなんとか作り上げている。
今回のアカデミー賞授賞式は、報道によると、「反トランプ」の嵐だったらしい。文化はだいたい様々な人たちが関わらないと生じないところがあるという一般論は脇に置いたとしても、ハリウッドがそうしなければ引っ込みがつかないのは、歴史的に理解できる。しかのみならず、そもそも原爆よりも赤狩りの方が気持ち悪い出来事なのだ。わたくしは、自己批判できるタイプの人間というのは、すすんで気持ち悪い行動をしてしまうものだと思っている。要するに批判とは振り子のようなものであって、批判のためにも意図的に一度あっち側にふれる必要があるからだ。アメリカというのは、なぜかそういう才能がある国である。今回、「作品賞を言い間違え事件」というのが起こった。司会者が主演女優賞の作品を言ってしまったのである。どうもあやしい。意図的に間違えたのではないか。「嘘じゃないよ、事実だよ」と受賞者が叫んでいたが、まさに、トランプへの当てつけとして解せる。よくわからんが、アメリカという国は、我々が考えるよりも、陰湿な社会かもしれない。だから、ときどき外部に爆弾をおとさないとやってられないのではないか……陰湿すぎて勢いあまったその流れで自己批判してしまうのだ。だから、「反トランプ」はその流れの一部であり、トランプと「対立」してはいないのではなかろうか。
対して、われわれの国はどうであろうか。われわれが反省するのは、いつも何か派手に押し流されたり爆発した時であり、その度に清清して再出発しているが、普段の陰湿さに関しては案外淡泊であり、権謀術数からも逃げている。日本のいじめは陰湿だと言われるが、それほどとは思えない。上の方に「馬鹿の匂いがする」ので脅えて身動きがとれなくなっているのが我々のいじめの正体だ。その代わりに、「火垂るの墓」に描かれたような庶民同士のねちっこい嫌がらせが、それへの抵抗として行われてしまう。我々の芸能界は、まったくからかうべき人間をちゃんとからかっていない。芸能人たちはどちらかというと、みずから「ゴジラ」的な存在となって喜ばれているだけで、確かに多少の思弁をもたらしはするのであるが、それだけである。だいたい、最近の「シン・ゴジラ」にしても、自動的に敵を排除する高度な機能を持っていながら、なぜしゃべらないのであろうか。まさに、われわれが夢想する専守防衛のイメージである。しかし、そんなことは絶対にありえない。
その演習であつかった■田▼輝の『宝島の教訓』のなかに「空想科学映画」というコラムがある。そこでは、「ゴジラ」と「原子怪獣現る」が比較され、ハリウッドの近くに原爆でも落とせばより作品が良くなるのに、とか書かれている。また、武器をつくるのをやめれば、怪獣を家畜に出来るとも……。特に後者をどう解するのかはちょっと難しいのだが、それはともかく――、原爆でも落とされなければ傑作をつくれないのは、アメリカよりむしろ相変わらず我が国である。このコラムが書かれた頃、ハリウッドは赤狩りの時代だった。しかし、ハリウッドは、ゴタゴタしながらそれを自己批判する映画業界というイメージをなんとか作り上げている。
今回のアカデミー賞授賞式は、報道によると、「反トランプ」の嵐だったらしい。文化はだいたい様々な人たちが関わらないと生じないところがあるという一般論は脇に置いたとしても、ハリウッドがそうしなければ引っ込みがつかないのは、歴史的に理解できる。しかのみならず、そもそも原爆よりも赤狩りの方が気持ち悪い出来事なのだ。わたくしは、自己批判できるタイプの人間というのは、すすんで気持ち悪い行動をしてしまうものだと思っている。要するに批判とは振り子のようなものであって、批判のためにも意図的に一度あっち側にふれる必要があるからだ。アメリカというのは、なぜかそういう才能がある国である。今回、「作品賞を言い間違え事件」というのが起こった。司会者が主演女優賞の作品を言ってしまったのである。どうもあやしい。意図的に間違えたのではないか。「嘘じゃないよ、事実だよ」と受賞者が叫んでいたが、まさに、トランプへの当てつけとして解せる。よくわからんが、アメリカという国は、我々が考えるよりも、陰湿な社会かもしれない。
対して、われわれの国はどうであろうか。われわれが反省するのは、いつも何か派手に押し流されたり爆発した時であり、その度に清清して再出発しているが、普段の陰湿さに関しては案外淡泊であり、権謀術数からも逃げている。日本のいじめは陰湿だと言われるが、それほどとは思えない。上の方に「馬鹿の匂いがする」ので脅えて身動きがとれなくなっているのが我々のいじめの正体だ。その代わりに、「火垂るの墓」に描かれたような庶民同士のねちっこい嫌がらせが、それへの抵抗として行われてしまう。我々の芸能界は、まったくからかうべき人間をちゃんとからかっていない。芸能人たちはどちらかというと、みずから「ゴジラ」的な存在となって喜ばれているだけで、確かに多少の思弁をもたらしはするのであるが、それだけである。だいたい、最近の「シン・ゴジラ」にしても、自動的に敵を排除する高度な機能を持っていながら、なぜしゃべらないのであろうか。まさに、われわれが夢想する専守防衛のイメージである。しかし、そんなことは絶対にありえない。