★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

戦闘の指示向線

2017-05-19 23:03:15 | 思想


70年代初頭、三上治にそんな題名の本があった。指示向線とは何か?それはともかく、この頃の戦闘的な人たちの用語法というのはなんだか面白い。この言葉なんか、もう少しで円谷特撮に出てきそうなニュアンスを持っている。もちろん言葉の面でもどうやったら戦闘的になれるか、という課題があったのである。今回の共謀罪の議論のなかで、ある党が「戦闘本部」を「立ち上げた」(←この言葉大嫌い)ところ――、そもそも「戦闘」とか違和感があるなーとか、リベラルだか左翼だかのカテゴリーの人たちの一部が言っていたそうである。事態はここまできたかと思うのであるが、批判を「つっこみ」とか学者が言っている御時世である。日和の技術も高度になってきたものだ。

それはともかく、新左翼なんかも、おれたちは既成のインターナショナルも民族性も受け入れないぜ新たな絆と綱領でがんばるぜ、みたいな感じだったわけだが、今は、戦闘も既得権益も受け入れないぜ新たな絆とミッションの再定義だぜ、とか若手笑が言っている訳である。まさにですね、ファシスト予備軍として全く進歩がない。というのは冗談であるが、そういえば、あるところで、ある官庁の若手笑グループがつくったポンチ絵が話題になっていた。いずれ本性が「見える化」(←あっ、一般人と共謀しちゃった)するであろう。事務職の誇りを忘れ、お絵かきと恫喝と……

結局、事態を変えるのは、小林多喜二のがんばりとか、永田洋子の暴走とか、赤報隊とか、安倍晋三(妻も同伴)の行動とか、なのである。法案を読んでないので正確にはしらないが、「共謀罪」は最悪の代物かもしれない。自分たちは共謀しない一般人だから大丈夫だとか思っている(ふりをしている)一般人は、そもそもだいぶ前から潜伏モードに入っただけであり、地獄の前で永遠にうろうろしている人たちだからどうでもいいとして、どうもわたくしは、学者やリベラル陣営にすら見られる協働したがる、いや「群れたがる」傾向が気になる。JPOPもどきの言葉で社交やってても、現実の生産関係を押さえているネットワークには負けてしまう。こう言うと語弊があるだろうが、トランプやうちの首相が、ある種の単独自爆テロの犯人に似たイメージを纏っていることを看過してはならない。つまり、現代は「テロリスト」が喝采を浴びる時代なのである。権力が「共謀」を取り締まることを、アイロニカルな、教育的意味として受け取る必要もあるのかもしれないのだ。というのは冗談であるが、一人でもやろうと思わないやつが何か別の目的を持ってズルをしようとしているのはもうバレているとみるべし。

いまやファシストの「主体性」を尊重しているような大学であるが、文学はそんな環境でこそ面白いことがやれる。