★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

17歳の風景

2017-05-29 22:50:01 | 映画


岡山の高校生金属バット殺人事件をもとにした映画。この「風景」はあまり印象に残らなかった。部活の後輩を殺したと思い込み、母親をバットで殴打して殺害した17歳が、東北地方に向けて自転車で1300㎞を走った。彼が見た風景を少年を演じる俳優とともに我々はみてゆくのだが、少年は少年自身をこの映画のようには見ていない訳である。実際は、この映画よりも、自分がいない、のしかかる風景のなかを彼は自転車で走っていた。しかし、そこがあまり実感できそうで出来なかった映画だった。「遠くから見ているだけ」でいいのか、というテーマを持つ映画であって、確かに遠くから見ている気もしないのだが、寄り添えば何か分かると思うのは幻想であるのも明らかだ。無論、制作者はその自覚があって、我々に何か行動を起こさせようとしているのであろう。

途中で出てきたお爺さんは、どこかで見たなと思ったら、針生一郎だった。なんか評論家じみたしゃべり方だなと思ったらホントの評論家だったのである。彼がしゃべった、シベリア抑留やら青春についてのお話をどうとるかも観客に任されているのであろうが、どうもあまり考える気にはなれなかった。

風景論で良く言われることだが、風景を風景と認識するには饒舌な言葉が必要である。言葉が抑制されているのか、言葉が出て来ないのか、何も考えられないのか。――わたくしは、この映画が訴えているのは、言葉、つまり風景の不在であると思った。