★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

疎外された予言は的中するか

2019-02-01 17:55:03 | 文学


母親をなくした光源氏であるが、現代の風景みたいに――すさんだ父親から意地悪されるでもなく、「いとど、この世のものならず、清らにおよずけ給へれば、いとゆゆしう思したり。」という有様である。なにしろ、この人は、普通の意味での人間ではなく、玄宗皇帝と楊貴妃に子どものがいたら的なものすごい何者なのかであって、うつくしすぎて逆に不気味であった。源氏七才の頃、宮中に入るのを禁じられている高麗の人相見がこういうことを口走る。

国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、 乱れ憂ふることやあらむ。 朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし

こんなことをうつくしい子どもにいちいち言っていたら、確かに宮中は大混乱である。高麗人の予言は、今で言えば、アベノミクスやスタップ細胞程度の実在性はあったにちがいなく、――いや、トランプの壁並みにあったかもしれない。だいたい、この予言であるが、恐ろしく飛躍的なことは全く言っておらず、せいぜい期待の地平の次元の話である。「天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」とは何事か。そこを言ってくれよ……。ビギナーズクラシックス日本の古典『源氏物語』の武田氏は、その予言通りに、「半帝・半臣であり、女性とあらゆる色模様を演じうる超人」となったのだ、と述べているが、そうかもしれない。ニーチェもびっくりである。そういえば、宮中で禁じられた高麗人の予言というのは、本質的かもしれない。いまでも、大学でも本当のことを予言する人は無視され、疎外された文科省や首相や財界人の予言ばかりが的中する。その意味では、源氏は、その色超人になることによって、高麗人の予言を踏み破っているのかもしれないのだ。光源氏は、もうこのとき、高麗人が詠んだ詩に対して句を返す才能を発揮している。これはすごい。最近の政治家が、むかしの帝の歌を引用して内輪で盛り上がっているのとは雲泥の差である。

日本が先進国のふりをしたいのなら、相手を理解したり自分を理解する段階にとどまってはいけませぬ。また、決まりをまもれみたいな学級委員長みたいなことを言っても、不良どもはかえって「うるせえぶっとばすぞ」と言うだけである。そして、いま相手にしているのは不良ではなく、もっと我々に近い集団である。

森達也「A」に描かれたように、近くにいるオウムにもちゃんとコミュニケートできないのに、外国人に出来ると錯覚するのは恐ろしい勘違いである。それよりも前に、まともに書類を作成できる能力をつくるために、大学でちゃんと「座学」を徹底せよ。

ドカベン輪廻

2019-02-01 16:14:09 | 漫画など


ドカベンがついに終わったらしいというのは聞いていたが、ファクトチェックとして最終巻を読んでみた。確かにおわっていたが、最後は岩城の回想シーンでその回想部分(ドカベンと岩城の最初の出会いの場面)がおそらく第一巻のコピペである。正確には、これは終わりではなく、「第一巻に続く」なので、永遠に輪廻するドカベン回想物語が成立したのであった。岩城の自意識過剰な部分は物語の荒唐無稽さではなく、語り手岩城の自意識そのものの反映となった。

ドカベンのクライマックスは、たぶん最初のシリーズの31巻ぐらい(土佐丸戦)で、高3時代を描く『大甲子園』のときが技術的に充実しているような気がする。とにかく書き込みが多く、一人の打席に一巻ぐらいかけたりする(違ったか)。打席中に打者の人生が回想されたりするのがドカベンで、その話はほとんど貧困や障碍に関わる浪花節的なものである。時代はかわり、主人公たちがプロ野球に入ってしまうと、それらはなくなり(というか読んでないから分からん……)、画も白くなってテレビの画面のようになっていった。もう時代は、ドラゴンボールや珍遊記でないと荒唐無稽が許されなかったのである。

とりあえず、最後は山田太郎のサヨナラホームランで終わるに決まっているドカベンであるが、やはり最終話もそうであった。しかしかれの打撃音は「グワァキィーン」となっており、これは岩城の打球音に近い。岩城のアドバイスでホームランを打ったのだから当然なのだが、結局、水島新司は、山田と岩城の話という原点に回帰することを選んだみたいである。里中や殿馬はサブキャラでしたからね……。

それと関係あるのかもしれないが、――長らく読んでいなかったので、よく分からないのだが、山田の家とおぼしき部屋でテレビをみている女人たちは一体誰であろう。たぶん、山田たち四天王たちの妻たちなのである。さっちゃん(山田の妹)と夏子はん(岩城家のお手伝いさんに生き写しの岩城の好きな例の人)みたいな顔の人が何人か増殖していたが、だれが誰と結婚したのであろう……。関係者の係累が複雑になると、漫画に於いては、「モブ」になるのが普通で(シランけど)、結局彼らはそうなったのではなかろうか。というより、男一匹主義から家族万歳主義になっただけかもしれない。あしたのジョーの主人公は恋人を振り切って一人で廃人に、ドカベンの主人公たちはそれぞれ結婚して一族郎党で生きてゆく。どちらも置いてきぼりをくっているのは、一般市民の観客であるが……。

外山恒一の『良いテロリストのための教科書』をこの前読んでいて思ったのだが、ドカベンもドラゴンボールもポリコレの影響を受けて長く続かざるを得なかったところがあるかもしれない。浪花節も西遊記も差別的な話である。これを市民的な話にするには、長い時間をかけて主人公たちをキャラクターから解放しなければならない。昔から気になっていたのだが、90年代以降の「キャラクター主義」はどちらかというと、キャラクターをせいぜい性格の違いに還元することではなかったであろうか。