★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「受け身」ということ

2019-02-06 23:00:21 | 文学


「よし、あこだに、な捨てそ」
とのたまひて、 御かたはらに臥せたまへり。 若くなつかしき御ありさまを、 うれしくめでたしと思ひたれば、 つれなき人よりは、 なかなかあはれに思さるとぞ。


帚木の最後のところの贈答はあまり好きじゃないが、かたくなに源氏を拒む空蝉の代わりに、空蝉の弟を横に寝かせている光源氏はなかなかの奴である。思うに、源氏も少年もおなじく若いということが大きいのであろう。若いというのは、自分にエビデンスみたいなものがない状態である。これがいいのだろう。中年が犬をかわいがるのとは訳が違う。

そういえば、千葉雅也のエッセイで知ったのだが、ボディービルをやっている人の中には、ドラゴンボールのサイヤ人を理想とする人たちが本当にいるそうである。千葉氏は、プロレスを非常に受け身的な行為なのだと言っていて、純粋な暴力ってあるのかなあ、――みたいな疑問を提出していた。わたくしも、そんな気分はわかる。光源氏も女性みたいだし、上の場面なんか、わたくしが肩にインコを乗せているときの気分とそっくりである。千葉氏も、最近のエビデンスブームを批判していたが、それは氏が暴力に何をみているかに関係があるのであろう。

わたくしも、最近、受け身であることに興味がある。所謂「寄り添う」ファシズムは嫌いだが、我々の社会が潜在的に求めはじめているのは、そういう受け身の連鎖みたいな状態なのかもしれない。寄り添う行為が極端に受け身であるような……