★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

みんな「教科書が読めない」のである

2019-02-15 23:07:41 | 大学


新井紀子の『AI対教科書が読めない子どもたち』を少し読んだ。AIに対抗する以前に我々の多くが教科書を読めない状態であることを告発した本である。が、それはいまに始まったことではなく、小学校を卒業する時点で、かなり多くの人が、国語の教科書の四割ぐらいは言っていることがわからない(ということが分からない)という状態にあり、中学高校、大学に進むにつれてその割合は増えていく。それを論理的な文(章)の運用訓練をすることで解決するようなやり方が可能だろうと思う人もいるかもしれないが、それこそ自分がどのように文章を読めないかを分かっていない人であろうと思う。文章が読める状態など、まあありえない(読みの多様性とかいうことではない。そんなものも本当はない)というのは文学をやっている人間にとっては自明の理だし、日本語の論理というのが何か、本当はこれさえ我々はよく分かっていない。たぶん日本語学をやっている人間もそう言うはずである。さまざまな分野の学問と同じく、文学、語学、論理学……、殆ど分かっていないことだらけであって、そこからみると、教育なんて、なんだかよく分からん賭をやっている状態なのだ。最近の全ての改革ヲタクに言えることだが、とにかく、いろいろなことを舐めすぎなのである。論理の切れ味を誇っているつもりがすごくバカでした、みたいなことは、卒業論文で皆が思い知ってるはずである。しっかりしてくれよ……

「教科書を読める」やつなんていない、という原則から外れている議論はすべてふざけている。

附記)後日、プログラミング教育の当事者と話をしたのだが、彼らが言う論理というのは、目的に添った条件付けの構築みたいなことのように聞こえた。言うまでもなく、そういう論理の形は、人間の用いる論理のごくごく一部に過ぎない。

渋柿地蔵を訪ねる(香川の地蔵40)

2019-02-15 01:09:18 | 神社仏閣


渋柿地蔵は、中野町。渋柿寺の住職の釋鉄雄氏による由来書に拠れば、ここらに戦国時代末期、香西氏の臣下の吉田玄蕃の城があって、彼の死後墓所となったらしい。東側の中央通りは昔香東川であった。いつも氾濫してこまったので江戸期に埋め立てられてしまったが……。とにかく氾濫がらみで人が死ぬところには地蔵を置く。そのまわりに生えていた柿の木の実は渋かった。それで「渋柿地蔵」となったそうである。

しかしまあ、有名なのは、むしろこれ↓



釋氏の解説は否定しているが、聖徒が刻まれているとみなして「切支丹燈籠」と考える人もいるという。そういえば昨日はバレンタインデーだったが、クリスマスも騒ぐ人たちも多いし、日本には大量の隠れキリシタンがいると言えよう。ただし、本人も自覚がないから無意識に隠れているレベルのすごい隠れキリシタンである。拷問したらすぐに転ぶが、家に帰ってからクリスマスツリーをまた飾ってしまう。長崎に原爆を落としても、それを燔祭と受け取ったひともいた。これは自覚的な人であるが……。この人はどちらかというと、隠れ日本主義者みたいな感じがする。小説を読んだ限りでは……