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新井紀子の『AI対教科書が読めない子どもたち』を少し読んだ。AIに対抗する以前に我々の多くが教科書を読めない状態であることを告発した本である。が、それはいまに始まったことではなく、小学校を卒業する時点で、かなり多くの人が、国語の教科書の四割ぐらいは言っていることがわからない(ということが分からない)という状態にあり、中学高校、大学に進むにつれてその割合は増えていく。それを論理的な文(章)の運用訓練をすることで解決するようなやり方が可能だろうと思う人もいるかもしれないが、それこそ自分がどのように文章を読めないかを分かっていない人であろうと思う。文章が読める状態など、まあありえない(読みの多様性とかいうことではない。そんなものも本当はない)というのは文学をやっている人間にとっては自明の理だし、日本語の論理というのが何か、本当はこれさえ我々はよく分かっていない。たぶん日本語学をやっている人間もそう言うはずである。さまざまな分野の学問と同じく、文学、語学、論理学……、殆ど分かっていないことだらけであって、そこからみると、教育なんて、なんだかよく分からん賭をやっている状態なのだ。最近の全ての改革ヲタクに言えることだが、とにかく、いろいろなことを舐めすぎなのである。論理の切れ味を誇っているつもりがすごくバカでした、みたいなことは、卒業論文で皆が思い知ってるはずである。しっかりしてくれよ……
「教科書を読める」やつなんていない、という原則から外れている議論はすべてふざけている。
附記)後日、プログラミング教育の当事者と話をしたのだが、彼らが言う論理というのは、目的に添った条件付けの構築みたいなことのように聞こえた。言うまでもなく、そういう論理の形は、人間の用いる論理のごくごく一部に過ぎない。