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いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどさへ、現とはおぼえぬぞ、 わびしきや。
管見では、光源氏と藤壺の密通が、以上の記述ですまされていることは有名である。これに比べると、『東京大学物語』なんか、ベッドシーンに何巻もかけているくらいであるが、案外、この二つの物語には共通点があって、夢か現かが主題である点であった。というわけで、江川達也氏は、『源氏物語』の漫画も手がけているが、少ししか読んでない。『源氏物語』(に限らないが――)がいかに言葉による物語であるか、江川氏の漫画を見て思い知った次第だ。江川氏の漫画を見ていると、言葉と絵を相乗的に過剰にすると、文字が絵にはめ込まれていく気がして、あるいみ現実みたいであった。『あさきゆめみし』は全部読んだがほとんど憶えていないので、なんともいえない。小林よしのり氏などもそうかもしれないが、本来は言葉の人で、それを絵の中でやろうとすると、絵に言葉がはまり込むのである。だから、小林氏の漫画は、いつも絵によってその言葉のメタメッセージや本心が測られてしまい、たぶん作者は「いつも誤解を受けるのは何でじゃろう」と思っている可能性があると思う。ただ、わたくしはそもそも絵を沢山描くことは、言葉にとって危険であることはわかりきっているので、それを押し切れるセンスは言葉向きの人ではないような気がするのであるが……。むろん、言葉の世界は言葉の世界で、紋切り型の稚拙な漫画みたいなものになってしまう場合があり、ネットの言葉なんかはかなりそうである。思うに、ネットは他人との相互の関係が近いんだか遠いんだか分からないので、我々は自分より他人に依存する傾向を強める。だから言葉が視覚的になって、場合によってはヘイト的になる。ヘイトスピーチは案外視覚的なのだ。
密事のあとの、藤壺と源氏の行動の方がこの物語の場合重要はのは当然なのだが、我々の現代社会がなぜかようにその「シーン」を描きたがるようになったのか、それは誰かの研究があるだろうから、探してみるとして――、明らかに、上の場面でも時間が止まっているように、現在でも「シーン」というのは時間が止まっているのだ。我々は時間によってストレスを受けていることは確かなので、それからの解放である可能性はあると思う。p-なんとかサイクルなんてのは時間的なものの典型で、あれはまったくサイクルではないわけである。我々はルーチンワークによって心を静める。その「シーン」もそうである。ほとんどやり方が決まっているのが面白い。昭和時代にやっていた仕事のあとの飲み会+みたいなものも、かなりルーチンであった。
考えてみると、和歌の贈答で少し変化をつけながら多くの密事をこなしていく源氏は、ほとんど「働き方改革」の人であったのかもしれない。