松井健児氏の「風景和文の変容」など、源氏物語論を読む。考えてみると、小林秀雄を乗り越えようとした吉本隆明、これを乗り越えようとした国文学者たちによって、果たして国文学の世界は我々にとって批評的に身近になったのであろうか、という問題がある。わたくしは、最近、吉本の小林の乗り越え方にやや問題があったと考えている。
で、柄谷行人の『世界史の実験』がでたので読んでみたのだが、一部盲点を突かれるところがあった。吉本隆明は『日本近代文学の起源』がでたときに、柳田の模倣だねとか言って批判していたが、それはある意味その通りであって、わたくしは柄谷の『遊動論』がでたとき、もっとはやくこういう柳田論が出てきてもおかしくはなかったと思った。もっとも、柄谷氏にしても『世界史の構造』を書いたあとでなければそれはあり得なかったはずであった。とかく他人への批判というのは、批判者の視角の上でのものなのであって、――他人は単純に、そのひとなりの行路でものを考えつづけるのである。これを忘れたときに、我々はより広い思考の可能性から本格的に疎外される。
わたくしは、昨年度から神道の周辺を身近なところから調べているのであるが、そろそろ怖れていた柳田もちゃんと読まなくては思ってはいる。