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まだ全部読んでないが、上は最近出た翻訳である。少女は生まれてからすぐナチエリートとして育てられた。しかし、同志との結婚、妊娠の過程でそこから抜け出す。翻訳者の後書きでは、彼女が新しい生命を生み出し、新たな人生が開かれる段になって彼女が自分の歩んだ道が自らの選んだ道ではないことに気がついたのではないかと述べている。確かに、そんな感じはしないではなかったが、彼女の回想を文字通りとれば、懐疑はもう少し前からあったので、実際はもっと複雑な行程をたどっている気がする。わたくしなんかも過去を振り返って思うことであるが、転回というものは、非常に少しずつ為されるものである。最近、わたくしは、よくいう「二人の自分の葛藤」みたいな図式をかなり疑っている。それは学生と日々話していても感じることである。――だから、こういう自伝みたいなもので真に難しいのは、過去のパートであり、明確な悔悛なんかがあっても、いやあるからこそなのか分からないが、過去というのは極めて思い出しにくいものである。これはわたくしの資質なのかもしれないが、この本の著者の女性にもなんとなくそれを感じた。おそらくは、彼女もわたくしも、いくらか教育の恐ろしさについて知っているということは重要かもしれない。教育のやり方で、記憶などいくらでも変形されてしまうのである。
そういえば、昔、ある有名な「いじめ」自殺事件がおきたとき、吉本隆明が、いま『超資本主義』に入っているある文章の中で、こういう自殺を防ぐことができたとすれば、彼が親とか教師ではなく同級生のなかでそれを解決することだった、といったことを書いていて、――いじめ対策に積極的に教師が関与しつつあったなかで、勇気のある発言だと思った。ただ、どうも吉本の中に「大衆が大衆として理想的にふるまう」(「あとがき」)というイメージが強固にあるのに、一方で、「共同幻想論」の延長上の問題として、個人と社会と国家を同等に共鳴し合うような様態としてみるという見方があって、大学生だったわたくしは後者についてすごく当時も実感があったが、前者にはまったく共感できない感じがした。上の著者も、もうネオナチだけでなく、一応現在の彼女がその擁護のために戦おうとしている「民主的な制度」もあまり信じているようにみえない。彼女が「文明の輝きというのは実は非常に薄っぺらい」と同時に述べるところからそれがうかがわれる。わたくしが大学で感じているのも同じ感覚であり、それは今に始まったことではなく、底にあるのは、よく言われる「自己肯定感の不足」とかよりも、親しい人間関係への強烈な不信感なのである。それはわたくし自身がもう四十年以上も感じていることだ。わたくしが、屡々学生に、現実やスクリーンのなかにおける、差異の微細なところに何らかの共通点を見出してそれを繋げる努力をするしかないのでは、と言っているのはその感覚からである。吉本の言う「共鳴」に関しては非常に敏感な学生が多いだけに、可能なのは、共鳴をしっかり分析して別の共鳴に組み替えることなのだと思う。
若者たちが、ラブストーリーを好むのは昔と一緒だが、彼女がいま結婚した彼氏をネオナチのなかから見出し、二人でその世界から脱出したように、――そんな関係をのぞんでいるのではないかと思うことがある。そんな、瓢箪から駒みたいなこともあり得なくないわけだ。
文学の教師に出来ることなど限られてはいるが、少しだけ出来ることはあるし、少し酷いことをしないことはできるかもしれない。何しろ、わたくしだって学生にとっては、国家の尖兵には変わりないのである。
附記)というか、わたくしは実際問題として、ネオナチみたいな学生とどう話し合うか今から予習しているのだ。