
「な疎みたまひそ。あやしくよそへきこえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくしたまへ。 つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。
わたくしは誤解していた――中学生の短絡で、光源氏が藤壺を好きになったのは、マザコンのせいと思っていたのである。上の記述をみると、あまりにも似ているので母子みたいだよ、邪険にしないで仲良くせよ、と藤壺に言ったのは桐壺に死に別れた帝であって、帝の言葉とあらば、源氏も幼子心に、はかなき花紅葉につけてこころざしを送ってしまうようになったのであった。全面的にここを原因と見るわけにはゆかないけれども、ある意味で、このあとの源氏の色道迷走は帝の指示なのだ。このあとは、皆が知るとおりである。
女御のいじめを看過し、イケナイ関係には無頓着になってしまう帝……
サビ-ヌ・メルシオール=ボネの『鏡の文化史』に、「女らしさとは鏡の作りだしたものなのだ」と書いてあったが、わたくしはその鏡の役割については実感がない。楊貴妃=桐壺=藤壺=源氏 みたいな連鎖の方がよく分かる気がする。とはいっても、一般的にはそうでもないのであろう。鏡は、自分の似姿というものにとどまらないと思うのだ。別にそれは鏡でなくても良い、テレビやスクリーン、劇場の舞台だっていいのだ。そこにいるようにみえる人間はそれをみる我々にどこかしら似ているからである。

『A』にでてくる、かたくななオウムの青年たちも、オウムに「常識」を強要しようとする醜悪な市民たちも私に似ていた。内面ではなく、まずもって容姿が似ている。それは私を苛立たせた。我が国では、かなり前から中国や韓国の人々を映像としてかなり良く目にするようになっている。たぶん、戦前までの彼らに対するアンヴィヴァレンツとは違うものが生じているはずである。「在日」という観点が差別に転じるのはそのせいかもしれない。先日も、「ど根性ガエル」でブタゴリラを好演していた俳優が乱暴を働いたとかいうので報道されていたが、わざわざ本名の韓国名が付されていた。面倒なことになってきたものである。要するに、わたくしは、オイディプスではなく、ナルキッソスの線に沿ってナルシズムを解したいのである。前者を批判しているうちに隘路に陥ったからといって、それをむりやり復活させようとしても、後者の亡霊はつねにつきまとうのだ。