自誠明謂之性。自明誠謂之敎。誠則明矣。明則誠矣。
――誠なるによりて明かなる。之を性と謂う。明かなるによりて誠なる。之を敎と謂う。誠なれば則ち明かなり。明かなれば則ち誠なり。とまあ、どこから明らかにしたらいいんですかといいたくなるような論理である。自然に誠が自らによって明らかである奴と、努力しなければ明らかになってこない奴がいる。結局、誠であることとそれが明らかであることは両面ではあり、相互によって体現される。どちらかが欠ければ一気に失われる。そういうものだから、もともと体現できる奴もまあいることになるわけだ。一方、誠を示さない努力は努力ではないので、そういうことをいくらやっていてもだめなのである。
たしかに、千本ノックをやたらやりゃいいというものではなく、やってるうちに、この体現のポイントを見出すことが重要である。
ところで、朝ご飯のあと、生まれて初めて「プリキュア」見ちゃったわけだが、かれらはかならず、よいことをできる努力が誠になって「変身」できる連中であって、まさに聖人である。だから、自分の聖人としての仕事以上に相手を爆発させたりはしない。こんな聖人をみて育った人間がどうなったか?→なぜか自己肯定が低い自信なさげな奴が増えている。よくみてみると、敵方が牛おじさんみたいな怪物で、なにが悪いのか説明がないのだ。現実には、聖人もやはり、自分だけでは聖人になれないのではなかろうか。孔子の生きていたコロは、明らかに悪い奴ばっかりだったので、孤独に修養すれば自然に聖人になれたのかも知れないが。