★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

文化と中庸

2023-08-02 23:45:08 | 思想


子曰、道之不行也、我知之矣。知者過之、愚者不及也。道之不明也、我知之矣。賢者過之、不肖者不及也。人莫不飲食也。鮮能知味也。

道が行われないのは、知者の場合は知ることが過剰で、愚者の場合は逆にあまりに知らないからであった。十代のわたしでさえ、過剰と不足に駄目さを見るこの論理は現象の観察としては正しいように見えるけれども、だからといって真実はちょうどいい「中」にあると果たしていえるのか、と思ったものだ。近代社会のように、行為が道具をコントロールする「文化」の自走みたいなものになってくると、たぶんこの「中」の感覚はよくわからなくなっている。これは過剰と不足の中間にあるのではなく、廣い意味での環境と人間の関係における「中」である可能性があるからである。しかしこれが過剰さと不足を意識するようでないと意識できない。

我々は「文化」の中に生きており、だから、文化に対する意識の移動で何かを語ってしまいがちである。例えば、ベルリンフィルの野外コンサートで「ベルリンの風」が流れ始めると、日本人の愛好家たちが屡々「ドイツ人に生まれたかった」みたいなつぶやきをしている。でも我々は、こう言うことができる。――我々はリンケだけでなくベートーベンですら盆踊りにできる、実際、私はさっきリンケで木曽踊りできた、と。これは、我々の文化本体とは関係がない意識の移動なのである。

また、例えば、高峰秀子様の「乱れる」を見過ぎたせいで、私は、加山雄三はいつまで経っても若大将ではなく、若造にしか見えない。しかし、私の知り合いの戦中派は秀子様が戦争で死んだと言っていた。慰問中に死んだと。もちろん勘違いなわけだが、戦争というのはそういう「文化」なのである。

週刊誌で大谷翔平氏のあつかいはどうなってるんやろと思って表紙だけ何誌かみてみた。すると、週刊誌のいつものゲスさと大谷君の崇高さがない交ぜになってなんかすごい回春的な何かになってることが認識される。日本の「文化」の姿である。大谷氏は、現代の桃太郎である。もうだれか研究してるとおもうが――、性の開放を若い頃経験して、コンプラな若い世界から疎外された年長者が、最後の山荘として立てこもる週刊誌の世界、なんだろう、現代の御伽草子的なものになっている。それは単に文化的なものに過ぎない。対して、たぶん、大谷氏の肉体は、科学によってコントロールされる。この科学とやらが、いつもわれわれを「中」から遠ざける。