昆虫の「顔」の問題は我々のそれを内省させるにはあまりにも面白すぎるが、魚ぐらいなら文学的表現になる。例えば、レスコフの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の最後、カテリーナがソネートカを道連れにするところ、「ぴちぴちしたカマスがかよわい小鯉に飛びかかったよう」だ、と表現されていて、これはカマスの顔をまじまじと見たことのあるやつの書くことだとおもった。ショスタコビチのオペラでも映画でも、歌手や俳優がいかに迫真の演技をしたところで、魚に似せることは出来ない。しかし、レスコフが要求しているのはそれであり、レスコフの描く、ロシアの怨念的世界は、ほぼアニミズムのような世界なのである。
わたくしはかなり若い頃から自分の精神的な弱さとおかしさを疑っていたから、自分がイキっていたら直ぐさま発作だと思う癖がついているが、――例えば、そこで仮面や動物の顔という壁ができるとどうなるか?「他人の顔」は、そういうことを考えるのは恥ずかしいから、人間の「顔」をもっともらしく語ったのである。だいたい、主人公が家父長的な「夫」の仮面を作成せずに、オットセイのかぶり物でもしていれば、妻にあそこまで嫌われずに済んだに違いない。変人としてそもそもケコンできなかったかもしれないが。