![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/98/b4bc547c96f164e734ad4110a5153917.jpg)
ああ新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。さらばやがてはまた幾年の後に及んで、いそがしき世は製造所の煙筒叢立つ都市の一隅に当ってかつては時鳥鳴き蘆の葉ささやき白魚閃き桜花雪と散りたる美しき流のあった事をも忘れ果ててしまう時、せめてはわが小さきこの著作をして、傷ましき時代が産みたる薄倖の詩人がいにしえの名所を弔う最後の中の最後の声たらしめよ。。
――永井荷風「第五版すみだ川之序」
芥川龍之介の「文芸的な、余りに文芸的な」をきわめてまじめに読んでみることが必要だ。そこには、破壊に対するいいようのない悲しみがあった。そのとき、可能だったのは、世界を無理矢理に美としてみることであり、しかも、芸術のほうがその世界をうまく描くことができるという背反を生きることである。もう「私」はない。久しぶりにマーラー聴いた。この人の音楽は、個人の救済が世界を救うみたいな、――セカイ系みたいなかんじで捉えられることもあるとおもうけど、はじめから自分とは関係ないものばっかり歌っているような気がする。きれいすぎるものだから。マーラー自身の意識はともかく、上の背反を生きたのだと思う。
この境地に立つためには、一般には、ほんとの自我の破壊を経験する必要があった。――戦争の悲惨さ、というより体験者と少しは一緒に暮らしてきた者の感想でいうと、ほんと戦前は悲しいことばかりだった、涙も引っ込む悲しいことばかりだったのだ、そのくらいは分かる。その意味で、戦争が、マーラーのように見えてくるというのは、戦後の文化に広く見られることである。
自分の子どもが何人も亡くなる経験をしているひとが多かった時代と今は違ってしまって当然だ。そういえば、マーラーの人生にとって、子どもの死(しかもそれを自分の曲が予言していた)の経験は大きかった。わたしの十代までの人生で一番の経験は自分の病気でもなんでもなく家族の死だったように思うが、これが現代の学生のいくらかにみられるように、親の離婚とかが一番の体験だと大きく人生観が変わると思う。