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子曰、鬼神之為徳、其盛矣乎。視之而弗見、聴之而弗聞、体物而不可遺、使天下之人、齋明盛服、以承祭祀、洋洋乎、如在其上、如在其左右。詩曰、神之格思、不可度思、矧可射思。夫微之顕、誠之不可掩、如此夫。
しばしば問題になる中庸の「鬼神論」である。朱子は、鬼神を陰陽の気のようにあつかって、祭祀をまじめにおこなえば陰陽の気が発動する、つまり鬼神が降りてくるみたいな汎神論だか自然現象論だかわからん解釈をしたようだ。新井白石なんかはほんとに鬼神はいるんだよみたいなことを言ってた、――と昔勉強した気がする。いずれにせよ、「視之而弗見、聴之而弗聞、体物而不可遺」見えず聞こえず、物体に体を遺して洩れないみたいなものは、原因的なものであって、しらんぷりの神様とは大きく違う。逆に、物体たるわれわれの言うことを聞いてくれるきがするわけだ。
大友克洋や鳥山明のもちいる気も、結局、根性入れればかならず外界に影響を与えられる的なものである。しかし、われわれが何回がんばってかめはめ波や元気玉の練習をしてもいっこうに何も起こらぬ。そのかわり、一生懸命体を動かすと体が変化する。かくして、我々は労働やスポーツに惹かれるのをやめることがない。
一方、文化に携わる者こそがほぼ鬼神論者になっているだけではなく、ときどき、精神と肉体の関係を解決済みと認識していそうな人間に鬼神論者がいる。例えば、結構な数の医者がコロナ禍でも別に自分は変わらなかったみたいなことを言ってたのを目撃したが、――みんなが一斉に証言している一日にして皇国主義者が民主主義者になった的な都市伝説――則ち、敗戦後の一億総転向みたいな現象の内実は、こういうタイプも言説を先導したというのがあったんだと思う。彼らはほんとに一貫性があるというより、死んだり大変な思いをした人間を弱かったと馬鹿にするタイプだろう。そういえば、似たような態度が、某医者が書いた「長崎の鐘」にみられる。彼は、原爆が落ちてもまったく意気消沈しないばかりか、「原子力の時代が来た」とある意味、喜んでいる。彼は科学の一貫性によって、日本が戦争に負けたり、国策に従っていた弱い根性を顧みたり、原子爆弾をおそろしく恐怖したりする「感情的な」人間を馬鹿にしていると思う。彼にとって、科学こそがこの場合「鬼神」であって、我々がその時々に極端にやらかしてしまうことそのものが鬼神であることがわからないのである。しかし彼の著作は、日本の原子力に対する態度の基本線を形成した。
暗闇の中でもっと黒いものが飛んでいた。これを錯覚とか烏じゃなかったか、とか言ってしまうことが現代では鬼神の為業である。