颱風がきた。
君子素其位而行、不願乎其外。素富貴、行乎富貴、素貧賤、行乎貧賤、素夷狄、行乎夷狄、素患難、行乎患難。君子無入而不自得焉。
中庸は、君子でない者がどんなことをやらかしてしまうか具体的な描写をあまりせず、倫理の複合的な作用を期待しているように見える。確かに失敗をなくして製品をよくしてゆくみたいな、PDCAサイクルみたいなものは、結局、人間が対象であると、どことなく欠点の増幅器みたいに働くのがフシギである。我々にとって、みずからの欠点を見つめすぎるのがそもそもよくないのである。ほんとはそれが出来ればよいのだが、心はそういう風にはできてない。ところで、上の欠点を長所に置き換えても同じ事だ。だから、孔子は「素貧賤、行乎貧賤」――貧賤に身を置いているならそれに即してなすべきことを行え、と貧賤を欠点とも長所とも把握しないことを推賞しているである。
小学校のころ、担任の先生に「空を見つめよ」みたいなことを言われたが、欠点や長所に拘泥しがちなわたくしに対するアドバイスであったろう。昆虫と同じく自分や他人に対しても偏執狂的に観察をしてしまうことの恐ろしさはたしかにある。
考えてみると、自分の田舎に対する見解もそこにいるうちは認識しがたいものである。自分が成長した地域に関してはいろんなことが眼に映りすぎるのである。上の君子も「君子無入而不自得焉」とあるから、情況や境遇に「入」るというケースで自己満足できるのであって、さすが放浪の人である。講師の目には、その「入」る対象だけが眼に映るわけじゃなくて、故郷やら他の様々な地域が眼に映っているからその境地に至れるんじゃないかと思う。
私は、木曽を出た後、名古屋でくらしたときに、冬がないと思った。関東でくらしたときにはまあ冬はキモチあるかな、と思った。高松に来たら冬も夏もなかった。そのかわり真夏と真夏より少し涼しい期間があった。――というわけで、木曽にしかちゃんとした四季はない、という結論に達した。主観的なものであるが、そうやって人は境遇の違いみたいなものを徐々に納得してゆくのである。故郷に閉じ込められていると、ファンタジーによる脱出を試みるようになり、それはそれで文化を創っておもしろいのだが、その人の生がどうなるかはわからない。例えば、堀尾省太氏の『ゴールデンゴールド』は、ファンタジーによる脱出である。「刻刻」もおもしろかったが、これもなかなかの面白さである。が、物語が終わった後がいつも気になる。この後如何するんだろう?
君子が「入」る例としては、最近、東大木曽研の方の木曽の夏祭り巡りがすごかった。わしなんか違う村の祭には行ってはいけない感じがあったし、村どころか、福島の中でさえ上町の祭に八沢連中は行っちゃいけないみたいな感覚すらあった。樋口一葉の「たけくらべ」ででてくる町の祭と村の祭(じゃねえけど)の違いみたいなの分かるからな。。「たけくらべ」では、前田愛が言っているように、コミュニティ同士のつばぜり合いでさえ祭にかこつけて行われている。よくわからんが、その舞台の吉原のあたりはやっぱり平面なんだ。境界線をつねに引きなおさなければならない。高松もそうだけど、平らなところというのはあちら側とこちら側が常にひっくりかえる可能性がある。平野での「あそこに行くな」は山では「あそこを超えるな」みたいな感じになる。差別が行われるのにも微妙な対他意識にも違いがある。これは、案外差別を考える上でポイントではないかと思うのである。藤村の「破戒」が長野県のある地域を舞台にしていることはすごく作品のイメージを有効につくっているが、これがテーマは同じでも東京や名古屋が舞台だとかなり違っているはずであり、人物たちの意識のあり方も違っているはずなのである。
「たけくらべ」でも吉原に関わる商業的な広がりと農村の関係が祭の違いで描かれているが、考えてみると、たとえば、福島の中でも上町や本町、八沢みたいな商業地域ごとの祭はいつ始まったのか。八沢の神社は津島神社で、なぜ津島神社なのだろう。八沢が商業地域であることと関係があるのかもしれない。わたくしの祖先が奈良井から八沢に移ってきたように、商人同士の移動もあったのかもしれない。そもそも職人たちがどこかから流れてきたのかもしれない。木曽のような土地の場合、人が住める平面が限られているので、土地の凹凸や川の分断がコミュニティを固定化する傾向がありそうだ。しかし、その代わり、狭いくぼみに住み着いた集団に対する意識が、勝手に侵入してきたコミュニティが線を引きまくる高松とは違うはずなのである。
――こんな具合に、土地や境遇に関しては、案外相対化してイメージすることが可能なのである。しかし、孔子がみていたのは、もっと人の人生みたいなもので、これはなかなか冷静になれない。思春期の危機は確かに大変だった気がするのだが、30近辺の危機もけっこうなものだったし、40辺りの厄年的なあれはものすごかったし、その後の中年の危機は本物の危機だし、全部危機じゃねえか、と。確かに、歳をとると簡単に分かることも多くなるのであるが、認識に喜びを感じる人の場合である。彼は君子である。しかしそうでない場合は苦しい。
思うに、思春期がある程度生理的なものが原因だとすると、他の危機もそうである。人生五十年のときには思春期を人生の山場として文化をつくりゃよかったが、もうそういう時代じゃないので、思春期1、2、3、4をつくってそれぞれに相応しい文化をつくればよいのではないだろうか。――というか、もう既に純文学やサブカルチャーはそれをやっている。しかしそれでもなかなかうまくいかないのが現代である。