博学之、審問之、慎思之、明弁之、篤行之。有弗学、学之弗能弗措也。有弗問、問之弗知弗措也。有弗思、思之弗得弗措也。有弗弁、弁之弗明弗措也。有弗行、行之弗篤弗措也。人一能之、己百之、人十能之、己千之。果能此道矣、雖愚必明、雖柔必強。
他人が一度で出来たら自分は百度する。他人が一〇回でできたら自分は千回だ。千本のノックのはじまりである。まあわたくしも、出来ないなら何回やってみりゃ何か出来るようになるのではと思うクチである。体でおぼえろというのは、歳とってくるとあんがい真実だと分かるのだ。体が衰えてくると、すべて忘れるからである。われわれは頭で判断しているのではないのだ。
唐沢富太郎だったかの本に、明治時代、旧制高校や大学で学帽が制定されたのは、学生の遊里への侵入を防ぐためだったとか書いてあったが本当なんだろうか。ありうる話だ。優等生たちは、勉強を頭だけでやるのではないのを知っている。つい体も動いてしまうのだ。この調子で遊郭に行き、勢い余って革命でも起こされたらたまらない。明治維新の後だから、まだ、知行合一こそ勉学の最高の能率であることを明治政府のチンピラ共がおぼえていたのである。