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地方局のアナウンサーのしゃべりを聞いていて「AIほんと気持ち悪いな」と言ってたら、「これ人間だよ」と細に訂正されたわたくしですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
巨人の星でもあしたのジョーでもそうだけど、恵まれなかった者がなんとか恵まれた者に勝つために、体が壊れる必殺技を繰り出してほぼ死ぬということをわすれ、やたら必殺技を繰り出すフィクションが精神のブルジョアジーを作り出している。いまこそ、――左門豊作とか山田太郎は貧乏なのになんで太ってんのかに注目すべきである。栄養が偏って太るのである。しかし彼等は必殺技をつかってやせたりはしなかった。地道に、恵まれた者たちを追い抜いた。
地道な道すらないので有名な「タッチ」は、野球の場面すらほとんどないみたいな感じで伝説になっていた作品である。九〇年代になってからよんだら確かにそうだった気がするが、死んだ弟の魂がいざというときに乗り移る「死者による魂の加速」(夏目房之介)はある種のスポ根そのものかもしれないのである。あれだよな、当時もPLや天理などの宗教学校が強かったみたいなのはタブーに属するのであろうか。この八十年代のいいかげんな霊魂・生命主義みたいなものがたぶん、地道な努力に入れ替わり始めていた。そしていまの「生命安心安全至上主義」に至る訳であるが、まったく別物になってしまっているのも確かである。死者の魂はいわば生きているからである。そのかわり、安心安全の魂ははじめから死んでいる。
民権論者とて悉皆老成人に非ず。あるいは白面の書生もあらん、あるいは血気の少年もあらん。その成行決して安心すべからず。万々一もこの二流抱合の萌を現わすことあらば、文明の却歩は識者をまたずして知るべし。これすなわち禍の大なるものなり。国の文明を進めんとしてかえってこれを妨ぐるは、愛国者の不面目これよりはなはだしきはなかるべし。
論者つねにいわずや、一国の政府は人民の反射なりと。この言、まことに是なり。瓜の蔓に茄子は実のるべからず。政府は人民の蔓に生じたる実なり。英の人民にして英の政府あり、仏の人民にして仏の政府あり。然らばすなわち今の日本人民にして今の政府あるは、瓜の蔓に瓜の実のりたるのみ。怪しむに足らざるなり。
ここに明鏡あらん。美人を写せば美人を反射し、阿多福を写せば阿多福を反射せん。その醜美は鏡によりて生ずるに非ず、実物の持前なり。人民もし反射の阿多福を見てその厭うべきを知らば、自から装うて美人たらんことを勉むべし。無智の人民を集めて盛大なる政府を立つるは、子供に着するに大人の衣服をもってするが如し。手足寛にしてかえって不自由、自から裾を踏みて倒るることあらん。あるいは身幅の適したるものにても、田舎の百姓に手織木綿の綿入れを脱がしめ、これに代るに羽二重の小袖をもってすれば、たちまち風を引て噴嚔することあらん。
――福沢諭吉「学者安心論」
明鏡は、安心してのぞき込んでいればよい鏡ではない。反射は、反抗であり抑圧である。