大哉聖人之道。洋洋乎發育萬物。峻極于天。優優大哉。禮儀三百。威儀三千。待其人而後行。
其の人を待って而る後に行わる、と言うが、我々は人を待ちすぎる傾向もある。しかし、だからといって漠然と何かを待ってばかりいると、四国の場合なんかだと長宗我部に神社を焼かれたりするのであった。そして今度は太閤を待つことになり、讃岐なんかはいままでずっと待つことになったのは言うまでもなし。
雨は待っていればいずれフルからまだましである。
とはいっても、明確な聖人のイメージをどことなくぼやかしているようにみえる儒教の世界の影響からか、我々はいつまでも積極的に世界に何ものかを注入することにためらいがある。マルクスは共産主義を幽霊だか亡霊だかに喩えたけれども、実際は亡霊と化しているものに栄養剤だかカンフル剤として侵入し何だか革命勢力が敵視するものをかえってやる気にさせる性格がある。仏教、基督教、イスラム、国民国家、みんな復活してしまった。どうみてもマルクス主義のせいであった。
確かに、日本は若い近代の頃、積極的に宗教的な場所を変容させる蛮勇をもっていた。神社や寺院に奉納されている砲弾は、第二次大戦の時に再び供出されていたと鵜飼秀徳氏の本で知った。すると昭和初期まではもっとにょきにょき砲弾が境内に生えてたところもあったんだろうと思う。ここらあたりではまれびと信仰は崩壊しつつあったのかも知れない。砲弾はまれびととは違う。近代日本にとって砲弾とは、ウルトラマンみたいなまれびとを防ぐ物体だったはずである。所持を禁止されたら、まれびとはまたやって来た。
学生運動は、おそらく、そういうまれびと信仰に対する最後の軍事的抵抗だったのである。それによって、恨みや怒りで人間関係を組み替えることを試みた。連合赤軍事件の「死」は、親子や夫婦の間で起こる「死の情景」に対する否定である。あさま山荘事件で、赤軍内に兄弟がいたことは有名だけど、学生運動や労働運動で、親子関係だけでなく兄弟・姉妹の関係がどう関係していたのかは興味深いところだ。私が見聞きしたところだと、党派の問題もあったが、姉妹仲良くみたいな儒教的道徳からの解放意識も絡んでいたように思う。戦前の転向が親子関係とつながることで非転向も生じたように、アニキやアネキの転向をみて非転向を決意することやその逆とか、いろいろあるわけで、そういうことを目撃するのも勉強だ。「家」が解体すると、桎梏がなくなる代わりにこういうこともなくなるのかもしれない。管見では、左も右も、「爺さん、婆さんの仇」あるいは「親の仇」というのは、結局いまだに重要な動機なんだと思う。おれなんかも、義仲や藤村の仇みたいなもんあるからな。。。
我々はいずれ待つことそのものもやめてしまうだろう。そして小さい何かを共有してひっそりと生きるのである。讃岐富士とか信濃富士というのはすごく小型の山で、御嶽とか駒ヶ岳の巨大さに強迫されて子ども時代を過ごした私にとって、なんとか富士とか言ってる輩はアホかと思っていた。しかしそもそも富士山はでかすぎて遠くからも小さく見えるのであってみれば、――小型の山を富士とか言っているのは当然なのかもしれないのである。