★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

舜好問

2023-08-06 23:49:17 | 思想


子曰、舜其大知也与。舜好問而好察爾言、隠悪而揚善、執其両端、用其中於民。其斯以為舜乎。

先生は言われた、「舜は偉大な知者である。舜は問うことを好み近くにある言葉から察した。悪を隠し善の方をとりあげ、両極の意見を調べて、その「中」を民衆に用いた。だから舜は偉大なのである。」と。

これだけみると、今はやりの「寄り添い」「褒め」系の意見にみえる。わたくしは、この「好問」というところが引っかかる。自説を振りまわすよりも人に質問するのを「好む」ような状態だから、――ある種の無私だから極端な意見に左右されずに「中」に到達する。ということなのであろうが、この「好」には、結局、「中」の具体性をなかなか「中庸」が語らないことと関係があるようにも思うのである。「好」なのは単なる態度であって、認識ではないしその人が何をやっているのかはわからない。「好きこそものの上手なれ」という万民に媚びた諺があるけれども、たぶん「上手」な奴はこういうことを言わない。

読書がスキになるとか、音楽がスキになるとか、勉強がスキになるとか、学校教育でいろんな目標が立てられるけど、**がスキです、とか言う人は必ず嫌いになったりするレベルの意識である。「子どもが好き」という動機で教師になってはいけないのと同じである。我々がものを学ぶのは、スキになったり実践的になるみたいな主客分裂的なロボットではなく、自然にやってしまえるように学ぶことだ。私もよくほんとに文学や音楽がスキなんですねと言われ続けてきたが、別にスキじゃねえよ。。。オタクさんやマニアさんだって別にスキじゃないのでは。。。「スキ」とかいうのはどことなく目的的なのである。教師志望の学生は「勉強がスキ」とか「読書がスキ」みたいなレベルではあってはいけない。かならず「スキ」という「意識」の強要をしてしまう。愛国心問題もこれである。我々國文學の徒は、国や郷土を「愛する」とか言わない。むしろその代わり、萬葉集や大江健三郎が口をついて出てくるのだ。そしてその場合も、陶然として気持ち悪い顔になるやからは半端もんで、むしろ苦虫をかみつぶしたような顔になる。

八月になると思いだすのが、小島憲之氏の「特殊語をめぐって」(『日本文学における漢語表現』)という文章で、特に軍隊語を論じたところ。「泣かす」という表現が、野間宏の「真空地帯」に出てくるが、そういえば昭和60年阪神が優勝したときにも週刊朝日が「泣かせる」と書いてた、鷗外の「於母影」にもある、と述べて脱線しかかるところで、小島氏が実は野間宏と文科で同級生であり、「青春ことばの一つ」だったことが明かされるのである。小島氏は、個人的なことが書かれてあることで、「黃水が走るような不快感」を読者に与えるかも知れないが許してくれと「あとがき」でのべている。――「はだしのゲン」とかもよいが、こういう本で戦争を通過した人間のことを考えるのもいいと思う。――それはともかく、この「黃水が走るような不快感」こそが、我々が歴史の中で文学を扱ったりするときによく堪えなければならないことだ。小島氏は学者だから、サルトルみたいに「嘔吐」の方向に進まないが、そういうものの存在を隣に書いていたと思う。

そういえば「スキ」と似ているのに「ステキ」というのがあるが、――わしゃ、ステキとかいう形容が公然と発せられてしまう業界はおわりだと思っている。最近大学生のなかで流行っている「だめライフ」であるが、これと「墜ちよ生きよ」(坂口安吾)の違いもそういう問題に関わっている。結局、「スキ」や「ステキ」には言葉が強制する感情?への服従があるが、精神の自由がないのだ。精神は、その強制から離れるところから出発する。その自由は教師たらんとすることと似ている。子どもたちは言葉が強制する感情を学ぶ段階だから、教師がそこに共感することも大事だが、そこに止まることは不自由を称揚することである。そうすると人間が病まざるを得ない。人間が言葉を学ぶことは危険と隣り合わせなのである。

目標(言葉)を立てないとモチベーションが下がるみたいな考え方もわかるけど、ほんとにそうだとしたら、生きる事そのものの無目的性に自分が向いていない可能性がある気がしてきてしまう。言葉による目標設定による統制が行きすぎると、そういうことが起きるんだよ。こんなことは当たり前のことでなかろうか。

授業は寝てもいいし、我々には悪い成績とったり、勉強できない自由すらあるのだ。当然、教師もいろいろな態度をとる自由があるのである。AIの居眠り探知機を導入する例のニュースがあったが、――そもそもおれはいつも魂が居眠りしているから大丈夫だと思うのは我々のような人種だけで、子どもたちはかわいそうだ。勉強が「スキ」で目がきらきらしている子どもみたいなイメージがやべえのはもちろん、――学級崩壊しているクラスの方が意識は覚醒してそうだし、プロの演奏会は寝てしまうけど、クソへタな自分の子どもの発表会は寝ないという現象をしらんのかと。そもそも教育現場や学会では、居眠りに対するいろんな研究の積み重ねがあるのだ。それを探知機を考えた人はどう考えてるんだろうか。まあ、いろんなテクノロジーが積み重ねを破壊してきた歴史が今までもあるわけで、また来たか、という感じであるが、テープレコーダーやパソコンの時と違って、なにかこのテクノロジーには快感がない。むしろ、ごきぶりホイホイとか殺虫剤のようなもののような気がする。なるほど、そこに快感があるのか。――もう面倒くさいので、居眠り探知機を導入するのもやりたきゃ勝手にやればよいと思うけれども、それ以前に、児童や生徒が腹を立てて、教師のパソコンを破壊するという想像をしないのがおかしい。ゴキブリや蚊の方に自由を感じる時代がくるとは思ってもみなかった。

居眠り探知機が批判されるのは当然だが、「チーム学校」みたいな発想も居眠り探知機の一種である。場合によってはまったく意味がないとは言えないが、戦時下の「協働」と同じで、問題の性急な単純化と機械化だと思う。機械化はそれ自体の自動化なので、いちいちプラス面とかマイナス面とかを数え上げなければならなくなるのだ。「ナチスはよいこともしたのか」という本がベストセラーであるが、ナチスに対して両価性をみたがるのはナチスをある種の暴走機械と捉えているからのような気がする。だから、むしろこういう良心的な誠実な本が、ナチスを益々暴走機械として純粋化してしまうことを懼れる。ナチスが評価されてしまうのは、その「スキ」とか「ステキ」と同じく、言葉への従属という快感があるからである。純粋化すればするほど、その機械の魅力は高まるのである。

学生のコミュ力が落ちてーという歎きはわかるけど、「チーム学校」みたいな機械的なものが繁茂した結果、逆に地道な根回しが徒労におわり、権力と幇間みたいな関係の方が学生にとって成功の道に見えてるんだったら、コミュ力みたいなもんは奴隷のススメに見えるわけである。奴隷へのススメはこれだけではなく、善意の顔も持っている。例えば、教員志望者が減っていることの一つの遠因は、教育を支援という言葉に言い換えたことにもあるような気がする。教育は、べつに権力の一方的行使では今も昔もありえないわけだが、「支援」という言葉で権力の逆転をなしとげたごとき発想が暴力的であって、――そこに学生のいくらかは「いろんなものの奴隷になれ」という声を聞いたのだ。

教育にはいろんな性格の現場があるし、管理教育的なやり方と言っても様々なものがあった。規律訓練ときくとパブロフ犬みたいな反応を起こすのは、主体的ときくとパブロフ犬になるのと一緒である。

教師のような精神の自由を行使できなければつとまらない職業の場合、やはり「馬鹿だなあ」というイメージを持たれてしまうのがまずい。人は「他人や自分の自由」を簡単に認める一方で「自分より馬鹿の自由」をなかなか認めない。教育の世界でも成績が悪い学校は管理教育的になる傾向がある。教育行政がどこまで分かっていたのかは知らないが、教員養成を師範学校化して、教師の知の権威を下げさせたことは見事に、教師の自由を剥奪した。それでもお上は不安なので、彼らの体力も奪う作戦も同時に遂行した。他の職業と同じく教師はおそろしく体力勝負であって、疲弊してもガンバレみたいなのはあまりに無謀な見解であるのは、当然であるが、――そんなことは当然であるに過ぎない。問題は、それ以前にあった。