「待てよ、いずれこの事件には平田門人の中で関係した人がある。やった事が間違っているか、どうか、それはわからないが、生命をかけても勤王のお味方に立とうとして、ああして滅びて行ったことを思うと、あわれは深い。」
そこまで考え続けて行くと、彼はこのことをだれにも隠そうとした。彼の周囲にいて本居平田の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。
木曾谷支配の山村氏が宿村に与えた注意は、単に時勢を弁別せよというにとどまらなかった。何方に一戦が始まるとしても近ごろは穀留めになる憂いがある。中には一か年食い継ぐほどの貯えのある村もあろうが、上松から上の宿々では飢餓しなければならない。それには各宿各村とも囲い米の用意をして非常の時に備えよと触れ回った。十六歳から六十歳までの人別名前を認め、病人不具者はその旨を記入し、大工、杣、木挽等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒の玉の目方まで届け出よと言われるほど、取り締まりは実に細かく、やかましくなって来た。
――「夜明け前」
わたくしの木曽時代の同級生に何人か、酒や蕎麦の有名店を支える主人がいるが、「夜明け前」を読んだ後だと、こういう老舗の運命というものが気になってくる。藤村の狙いは、歴史の反復性みたいなエセ観念を使ってでも何でも、木曽の産業にとどまらず木曽の歴史そのものを蘇生させることであったと分かる。木曽がどんな地政学的意味を持っていようと、そして日本がどんな地政学的意味を持っていようと、人間のしでかす出来事はそこに構造の反復をゆるさないなんてことはざらにあるのだ。しかし、フィクションでは反復があり得る。しかも優しさをもってやりぬくことができるかもれない。
このまえ、西田幾多郎とベルグソンの偉さの違いが、その人類愛に於ける実行の違いにあったみたいな論文を読んだが、それはまだ歴史のおそろしさを知らない人の書くもののように思った。