国会図書館の本に限らず、古本というのは、旧持ち主の落書き=愚痴とかを楽しむものである。わたくしの勘違いでなければ、自然主義系の本にはあまりに稚拙で深刻な愚痴が書かれていて、もうさんざ言われていることのような気がするが、私小説とは読者の反応というものであった可能性を示唆する。
「床が板でないので、少し憂欝ですね。」
「さうしようかと思つたんですけれど……。」
「どんな人が踊りに来ますか。」
「いろいろです。あすこにゐるのはお医者さまと、弁護士です。」
汗がひいたところで、私はまたざらざらするフラワへ踊り出したが、足の触感が不愉快なので、踊つたやうな気持にはなれなかつた。
私は椅子にかけて、煙草をふかした。
――徳田秋声「町の踊り場」
徳田秋声の古本によく書いてるあるのが「この本に書かれてゐるのは愚痴に他ならない」という愚痴である。以前わらったのは、西田幾多郎大先生の善の研究のあちこちに、カブトムシの絵を描いていた一高生。カブトムシ好きすぎである。