★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

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2024-09-20 22:52:38 | 文学


○ベースボールの球 ベースボールにはただ一個の球あるのみ。しかして球は常に防者の手にあり。この球こそこの遊戯の中心となる者にして球の行く処すなわち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く。されば防者九人の目は瞬時も球を離るるを許さず。打者走者も球を見ざるべからず。傍観者もまた球に注目せざればついにその要領を得ざるべし。今尋常の場合を言わば球は投者の手にありてただ本基に向って投ず。本基の側には必らず打者一人(攻者の一人)棒を持ちて立つ。投者の球正当の位置に来れりと思惟する時は(すなわち球は本基の上を通過しかつ高さ肩より高からず膝より低くからざる時は)打者必ずこれを撃たざるべからず。棒球に触れて球は直角内に落ちたる時(これを正球という)打者は棒を捨てて第一基に向い一直線に走る。この時打者は走者となる。打者が走者となれば他の打者は直ちに本基の側に立つ。しかれども打者の打撃球に触れざる時は打者は依然として立ち、攫者は後(一)にありてその球を止めこれを投者に投げ返す。投者は幾度となく本基に向って投ずべし。かくのごとくして一人の打者は三打撃を試むべし。第三打撃の直球(投者の手を離れていまだ土に触れざる球をいう)棒と触れざる者攫者よくこれを攫し得ば打者は除外となるべし。攫者これを攫し能わざれば打者は走者となるの権利あり。打者の打撃したる球空に飛ぶ時(遠近に関せず)その球の地に触れざる前これを攫する時は(何人にても可なり)その打者は除外となる。

――正岡子規「ベースボール」


歳くってきて昔は良かったねという人はまだ現在に対してもある程度良かったと思っている可能性が高い。中年の危機においては、現在、それにもまして自分の過去の価値が怖ろしく下がる場合がある。現実逃避が出来なくなるのだ。若い頃の現実逃避はある種の現実肯定の上に成り立っているのである。

現状肯定は、動くボールに対して動く棒が衝突するにもかかわらず、跳ね返ったボールが拍手に迎えられた空間に着弾するという軌跡のようなものだ。それが追えなくなってくると肯定はむずかしくなる。

今日は、大谷翔平選手が、50ホームラン、50盗塁をきめ、観客がそれに浸ろうとしているところにもうひとつずつ加えて51-51の記録を作った。もはや「ドカベン」や「巨人の星」みたいな現実に着弾してしまったものはもちろん、「アストロ球団」みたいなものも現実が越えてゆく事態を示しており、――つまり、日本人による日本文化の否定が行われ、遂に「近代の超克」はフィクションに因ってではなく、現実によって為されたのである。思うに、米国と日本はしらないうちに思ったよりも一蓮托生であり、民主主義は理念の残余を引き摺った上でサブカルチャーの英雄であったトランプという現実によって超克され、ベースボールは日本でサブカル化した野球を吸収して自らを超克しつつある。

民主主義やベースボールは宗主国の佇まいを我々に感じさせるから大谷が化け物に見えない。しかし、日本文化的にいうならば、大谷のやってることは、あれだ、「好色一代男」が女護島でも順調にモテてウルフの「オーランドー」に勝ったみたいなかんじなのである。

中国籍の王選手が世界記録を作り、大リーグで大きい日本人が活躍する、こういう越境的な情況でしかおれたちはアイデンティファイできない。

もっと大谷の行為を日本に取り戻したいと思いたい御仁のためにも、暑いので、大谷さんがホームランを撃った数だけ夏休みを長くすることを激しく提案する。