あわれ、渠の胸には、清水がそのまま、血になって湧いて、涙を絞って流落ちた。
ばらばらばら!
火の粉かと見ると、こはいかに、大粒な雨が、一粒ずつ、粗く、疎に、巨石の面にかかって、ぱッと鼓草の花の散るように濡れたと思うと、松の梢を虚空から、ひらひらと降って、胸を掠めて、ひらりと金色に飜って落ちたのは鮒である。
「火事じゃあねえ、竜巻だ。」
「やあ、竜巻だ。」
――泉鏡花「爪の涙」
ネット上のスラング「炎上」なんか、言葉上、自然鎮火するのが当然であるようにおもわれるから、――せめて驚擾とか言った方がいいのではないか。島田三郎の足尾鉱毒事件のときの「民衆の驚擾を鎮めんことは吾人の佇立して期待する處なり」というかんじが大事だ。同じ文章で島田三郎は「感情に決せずして之を条理に決せよ」みたいな素朴な言い方をしているが、これが原則的に政治には必要で、いまは逆に、条理はあれだが思いがある、みたいなことを政治家が言う、庶民にうけるためだとはいえ。島田の言いたいのは条理に決する感情の欠如であるのだが、――現代は、ギデンズではないが「感情の政治」の季節なのである。左派が思うよりもそうなのだ。
感情に決する――そのなかでも、たしかに、なんだか涙が出ちゃうみたいな人は思ったよりも多い、とインテリははやめに気付いておいたほうがよい。インテリには怒りと快活さを組み合わせることに成功した人間が多いのだが、悲しみと怒りの紐帯をなめてはいけない。教師なんかをやってると忘れがちなことだ。
ネットがない時代の新聞というのは、子供なんかにに与える影響は甚大である場合があって、わたくしの場合、中日新聞と中日スポーツとときどきくる赤旗の日曜版の影響が大きいに違いない。そこに抜けているのは、うえの「悲しみと怒りの紐帯」である。そのかわりに心に繁茂するのが、アイロニーと真面目さと批判である。
むかし柄谷行人が、負け続ける阪神を応援し続けているファンを、地域共同体とは違った交換D的なよい?共同性の何かとして説明していたと思うが、なぜかそういうかんじが負け続ける中日のファンから感じられない。やはり山本五十六が生きていたら(落合監督だったら)勝ってた的なかんじになっているからであろうか。もう30年近く読んでないからわからないけど、中日スポーツの文章のありかたも関係しているじゃないかと思う。なにか駄洒落に走ったりして、阪神の新聞(なんだっけ)の突き抜けた素朴さがない。もう記憶だけで言っているんでまったくの戯れ言なんだが、こういう細かいところは案外重要だと思う。
宮台真司は、柄谷とちがい、共同体の条件を悲惨の共有とか言ってしまうから、読者達がやたら躁鬱的に陰険になってゆく傾向がある気がする。たしか、宮台は野球が嫌いだそうである。柄谷の読者が快活に批判的でありわりと社交的であるのと対照的である。――いや、そうでもない。思い返してみると、柄谷の読者もかなりルサンチマンに満ちたやつが多かった。彼らが忘れるのは、悲しくてしょうがないみたいな心である。