今は百日紅が美しい。私の庭には、たつた一本あるばかり、それもさう大して大きいのではないが、亡兄の遺愛の樹であるので、私は大事にした。今年はそれでもかなりに花が着いて、深く緑葉の中から微かにチラチラと見え透いてゐる形は私を慰めるに十分であつた。これからは木犀だ。玄関の傍の金木犀、銀木犀の匂ふころには、村の鎮守の祭礼が近く、村の若者達の練習してゐる馬鹿囃の太鼓の音が夜毎にきこえて、月は水のやうに美しくあたりを照した。
――田山花袋「中秋の頃」
自然主義の時代は違ったのかも知れないが、まだ中秋の名月だかの頃は36度あるんだけども、みなさんいかがお過ごしですか。
ラインをやってていいことといえば、――今日なんか頼んでもいないのにこちらの月だとかいうて月の写真がたくさん送られてくるのは面白い。みんな同じ月です、そして全然別物に見える。環世界だかパースペクティズムだかがテクノロジーをかいして判明する昨今、離れた二人が月を眺めて愛を感じるとかは難しいが、フィクションではまだよくある。
昨日も大河ドラマで紫式部が道長と一緒に月を眺めていた。話はずれるが、――この源氏物語の作者が美人女優(吉高由里子様)なのがなっとくいかんという人もいるであろうが、普通に考えて、文学少女や文学者の色っぽさはすごいだろ、頭んなかすごいぞ。源氏物語かくやつだぞ。(むかし宮台真司もそんなこといってた)あまりにひどい目に遭った天才を除けば。
こんなよい月を一人で見て寝る
――尾崎放哉『尾崎放哉選句集』
そういえば、大学生の頃、将来像を示せみたいなアンケートに「インコと私で二人暮らし」と書いたことがあるが、ひょっとすると、今の細はインコかも知れない。あと、メダカは幻影であろう。
まことに他人というモノは生成変化するものであるし、自分とは明らかにちがう作用を持つものである、カウンセリングや集団治療なんかでも、人に話して楽になる効果が言われる。が、自分が言うとルサンチマンになるが、おなじことを人が言うと課題になるということもあるのである。研究でもそういうことある。研究史の研究なんかが必要なのはそのためである。より正確に言えば、人が言うのではなく「人が書く」ことが重要なのである。
で、最近はイブ・コゾフスキー・セジウィックの引用をみて、ちゃんとフェミニズムの勉強を再開しようと思った次第である。フェミニズムもマルクス主義と同じで、多くの怨恨を巻き起こした結果、それを相対主義みたいなところに着地せざるを得なくなっている。これじゃいかんと思うからだ。すくなくとも、セジウィックの本をさっき少し読んでみたら、はやりこのひとのニューチェ批判なんかはまだ有効だと思った。
そういえば、大学でも我々が大学生だった頃、どことなく女性の教員を馬鹿にする輩がいたことを思い出した。最近、古本で神山妙子先生の『イギリス文学史』買ったんだが、最初の頁に「先生が言った作者名や作品名は暗記しましょう」「出席はとーぜん。」と漫画文字でメモ書きがあった、昔の学生は勉強してたのう(棒読み)
いまさらわたくしの大学時代を思い出して如何するんだと思うが、定期的に勉強不足だった自分のおつむを思い出す必要があるのだ。
もっとも、わたくしは、「ル・サンチマン」の心情の回帰性ではないが、――いろいろなものを遅れて経験する才能がある。研究者によくあることでもあるが、わたくしは症状がひどい。例えば、さっきNHKで中年の危機を如何するかみたいな番組やってたが、わたくしはじめてスターバックスの飲み物をこの前飲んだから気分は小学生なのだ。
こういう才能は、教師向きでもあるのだ。高等学校の非常勤講師時代、――ある高校生が算数の初期段階でとどまっていたので、割り算とかを一緒にやってやり本人に喜ばれたことが、いままでで一番の教育者としての経験である。こういう作業はある程度まで苦痛じゃないのだ。
また、アスリートなどを学校の先生にできるみたいな話がもちあがっているが、教員養成における教科の専門性がそれなりに100年近く研究されてきているのを無視する馬鹿の所業といってもなかなかなっとくせん人もイルであろう。そもそも教師の才能とはわたくしの例を見てもあきらかのように、かなり特殊なのである。そしてそういう真実に対して向いていることが、本当に向いているとは限らないのである。例えば、人は、ヴィトゲンシュタインの小学校教師時代のエピドードや、「ジャン・クリストフ」の学校教師時代のエピソードを想起するであろう。