★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

罪方に汝にあり

2024-09-14 23:28:12 | 文学


時に空中に人有て、「孫行者我が寶貝を還せ」といふ。行者聞て、空中へをどり上って是を見るに、是李老君なり。行其故をとふ。老君が曰く、「那葫盧は我が仙丹を盛の寶貝、浄瓶は我が水を裝の寶貝、賢劍は廣を煉寶貝、扇は火を煽ぐの寶貝、コウ金縄は我靭袍帯なり。 那両怪は、一個の金廬童子、一個の銀爐童子なり。他我が貝を偸み、下界へ逃走し、所在を知ざりしに、不期も今汝に拿られたり」行者𠮟つて曰く、「汝這老官兒、縦に家童を放て吾が師父に害をなさせ、経をとるの邪をなす。罪方に汝にあり」老君が曰く、「是事我が預る處にあらず。汝が師徒魔ありて難に逢ふなり。此難に逢すんば正果にいたる事難し」行者聞きて初て了然、五件の寶貝を老君に返しければ、老君葫盧、浄瓶の口を開きて、両股の仙氣を出し、指を入れ化して二童子となし、行者に別れて天宮へぞかへりける。

この老君はもっともらしいこというて、猴をだまくらかして天宮へと帰って行ったが、金角銀角の狼藉があったからこそ、この爺もちょっとは賢くなったかも知れないのだ。いまだに「罪方に汝にあり」といったせりふは教育的である。ただ、爺婆ぐらいになると、上の人みたいにむしろお前のためだったみたいなことを言いかねない。いや、老人にかぎらず、二〇ぐらいになると手遅れだというのが実感である。

そういえば、所謂アンガーマネジメントみたいなものは完全に奴隷の魂を殺すものであって、そうでなければむしろ怒りを買っている。まだ孫悟空の魂を持っている大人はましである。

「亜人」なんて作品は、死んでもそのつど生き返る人間の話であったが、もはや上のような魂の死と再生のメタファーなのであろう。

わたくしは、若いフェミニストたちがやたら平等志向なので、つい「マッキノンも読んでないのかよ」とか上から言っているのがいかんとは思うが、――絓秀実でなくても、さすがに彼らの議論をなかったことにしてはならぬくらいの怒りはある。

人間は目標に向かって生きるみたいに都合良くは出来ていない。自然にやってしまう以外の、――その、目標を口に出してみたいなやり方は、実際にその目標を実現できる能力がないことを糊塗する目的に常にすりかわる。わたくしは、多くの人間の現実を言っているのだ、やる気のあるように見える人間に限って努力しないし嘘ばかりつくようになるのはそのせいで、そういう自覚のある人間が、だからこそちょうど先生みたいなものをやりたがって問題を看過し続けることを生きる目標にしてしまう。先生とは、自分と他人の目標を引き延ばしに出来る性格をもつからだ。

中島敦の「悟浄嘆異」なんか、その生悟り病の深刻さへの入り口として正直な作であった

その先生には所謂政治家なんかも含まれている。「先生」になって偉ぶりたい現象というのは昔からあるけれども、意味あいがちょっと変化しているようだ。現在のそれは虚栄心ではなく、もっと自意識的で必死な「自己肯定感」に近いものである。一度とった態度や目標を降ろすことが出来ない、それをすることは自分のその肯定にかかわるからである。たぶん、小学生の低学年の頃やもっと前の時代に、口先だけで何にも出来てないことを叱責されておらず、むしろ目標を持つこと自体を褒められているからである。この地点では大人や教師は必死にかような子供の堕落に抵抗するべきなのだ。ウソを積み重ねて育ちあがってしまうともう引き返せない。

こういう情況が一般化すると、ある種のインテリの、他人の人生を哀れんだり社会構築主義みたいなことを言ったりすることすらも、口先であることを合理化してくれるみたいな行為として便利になってしまう。ネットという手段が与えられたこともあるが、それ以前よりもみな進んでインテリになりたがるのはそのせいである。それをある程度自覚しているから、職業としてのインテリは、ずるさの象徴として自覚的に攻撃されることにもなるわけで、――攻撃された方もますますアカデミアとか言うて自分の存在を自明の理化するのであった。