★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

墓碑である

2024-09-18 23:46:09 | 音楽


 音楽の構想は意識的に生まれるのだろうか、それとも無意識のうちに生まれるのだろうか。これを説明するのはむずかしい。 新しい作品を書いてゆく過程は長く、複雑に入り組んでいる。いったん書きはじめてから、あとで考え直すようなこともよくある。いつでも、あらかじめ考えていたのと同じような結果になるとは限らない。もしもうまくゆかないような場合には、その作品をそのままにしておいて、つぎの作品で、前に犯した誤りを避けようと努力する。これはわたしの個人的な見方であり、わたしの仕事の仕方である。もしかしたら、これはできるだけたくさんの作品をつくりたいという願望から出たものなのだろうか。ある作曲家のひとつの交響曲に十一の改訂版があるのを知ったとき、わたしは思わず、それだけの時間があれば、どれほど多くの新しい作品を書けるだろうか、と考えずにはいられなかった。
 いや、わたしの場合でも、もちろん、古い作品に立ち戻ることもあり、たとえば、自作のオペラ《カテリーナ・イズマイロワ》の総譜にはたくさんの訂正を加えている。


――ヴォルコフ編「私の交響曲は墓碑である」(『ショスタコービチの証言』水野忠夫訳)


小学校六年生頃からの愛読書がこの本で、偽書の疑いもなんのその、わたくしはこの日本語訳のあちこちを諳んじている。上のような部分については昔はあまり気にならなかったが、いまは深刻な問題だ。思うに、上の「ある作曲家」というのはおそらくブルックナーのことであろうが、彼の曲が供物であるに対して、ショスタコービチの場合は墓碑であることが大きいんじゃないかと思う。わたくしはこの二つを使い分けようとしているが、一人の人間がそういうことをするのはかなりしんどい。

それにしても、「わいの交響曲は墓標である」というの、むかしはふーんと思っていたが、E・トラヴェルソの本を読んでたら、彼こそ左翼の伝統の本質をやっていたということになるかもしれんと思った。彼の交響曲こそソ連邦ということになる。