★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

We few, we happy few, we band of brothers

2025-02-17 23:56:22 | 文学


This story shall the good man teach his son;
And Crispin Crispian shall ne'er go by,
From this day to the ending of the world,
But we in it shall be rememberèd—
We few, we happy few, we band of brothers;
For he to-day that sheds his blood with me
Shall be my brother; be he ne'er so vile,
This day shall gentle his condition;
And gentlemen in England now a-bed
Shall think themselves accurs'd they were not here,
And hold their manhoods cheap whiles any speaks
That fought with us upon Saint Crispin's day.


スタンダールが引用した有名なヘンリー五世の演説のシーンである。が我々が、we happy few などと言えなくなっているのは、戦うつもりがないために、少数派でないからだ。落窪の姫君はどちらかといえば、少数派ではない。虐められているだけである。我々はつい、闘いを復讐として行う。それは、闘いではない。闘わないから少数派ではなく、多数派になるのをまっている卑怯者である。虐められていても我々はいつも気分が卑怯な戦前派である。闘いを回避した人間は逆恨みを抱く。これが第一の敗戦である。

だいたい哲学や文学が逆恨みから発しているうちは、その匂いをかぎ取った社会の側が理不尽な理路を用意したり、たんなる優等生的正義派みたいなのが全権掌握をねらったりする現象は止まない。で、逆恨みの人たちは、二度目に負けるときには、逆恨み状態が心理的にはコンプレックス=複雑だとおもっているから、「転向」して頭が悪くなる道をえらぶ。たいがいインテリの「転向」は、かように、二の敗北を契機に起こる。

最近は、更なるそのあとの現象が顕著であって、いわゆる嘘による自己回復というやつである。学者達がじぶんの学問以外の道具的基準をもちだして何かを主張するようになったらおしまいなのだが、人間なのでなにか道具をあたえたらかならずそうなってしまう。業績やらなにやらを数や賞で代替できるようなおもちゃを与えちゃだめなのである。本人はもはや転向者でも敗者でもない、どこかしら狂ったピエロみたいな雰囲気を漂わせるようになる。化けの皮がはげないようにするために、本質的には保守主義者となる。

で、――ほんとこの二十年ぐらい、悪目立ちしたら負けみたいな雰囲気に棹さした奴は差別主義者として石碑に名を刻まれるべし。上の保守主義者の為業である。そういうコンプレックスもなにもない小人たちがあつまっても、コモンセンスは形成されない。最近は、かくして、小さい組織の投票行動のおいてすら、およそコモンセンスの意思表示にはなりえなくなってしまった。空気を読んでいるのでさえないから、ほんとに最悪である。