★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

暗黒時代における科学・人文・文学

2023-07-06 23:14:05 | 思想


このいまのつぎにひかえる時代、すでにわれわれのうえに覆い被さっているボスト現代は、ニーチェの身体/屍体にあいかわらず支配されてゆくのか、あいかわらずみちびかれてゆくのか。根底においてコミュニストであることを断固譲らない本書は、つぎのいづれもひとしく――徹頭徹尾とはいわないまでも敵対することばを投げかけてゆく。 [イギリスの分析哲学にたいする] 大陸哲学、文化研究脱構築、解釈学、新自由主義、新歴史主義 ボスト分析哲学、ボスト近代主義、ポスト構造主義、構造主義、そしてなかんずく〈西洋マルクス主義〉に。
 したがって、もたらされた本書という結果にたいして、同僚、友人、敵のそのほか、だれであれ、読者のだれもが申し分のない満足を覚えるなどということはありえない。それどころか、だれひとり、わずかの満足さえ覚えないということすらありうる。 この本は、或る意味 ひとを激昂させるよう仕組まれている(「激昂させる (infuriate)」 の語源、ラテン語にいう 「infuriare」 は、ギリシア神話に登場する「復讐の三姉妹女神 (the Furies)」に由来し、立腹させる、激怒させる、怒り狂わせる。 猛り狂わせるを意味する)。 ならば、さらになきにしもあらず、本書はただたんにひとを激昂させるだけに終わるかもし
れない。
 ここにさし出したプディングの味見は判定されるに任せ、また、多すぎるをとおり越すほどのひとびと――本書の印刷にたずさわってくれたひとたち、教えるより、学ばせてくれるところの多い学生たちもふくめーの名前は割愛させていただくことにするが、せめてつぎに挙げるひとびとには、心から直接の謝意を表しておきたい。 ノーラ・オールター、ルイ・アルチュセール、スタンリー・コーンゴールド、サイラス・ハムリン、アン・バーネット・ウェイトおよびロバート・ウェイト、ピーター・ウェイト、ベンジャミン・ウェイト。
 そのほか、どれほどたくさんのひとたちに感謝しなくてはならないか、 献辞の不備そのものが、かくも雄弁にものがたっている。


95年、オウム、大地震、ウィンドウズ95、わたくしの卒業論文――この時期にかかれた上の文章は、ジェフ・ウェイトの『ニーチェの身体/屍体――美学、政治学、予言をめぐって、あるいは、日常生活のスペクタクルとしてのテクノカルチャー』のプロローグである。まだ本文を読んでねえが、――思うに、怒りを買う書の割には献辞をささげる人が多いところからして、韜晦の度合いがそれほどでもないような気がする。とはいえ、副題の長さがまず怒りを買うことは確実である。もっとも、Nietzsche's Corpsle: Aesthetics, Politics, Prophecy, or, the Spectacular Technoculture of Everyday Life という英文に怒りを感じないのに、なぜか日本語には突っ込まざるを得ぬ、なぜであろう。

絵本には時々、浦島さんが、あの石亀の背に乗つて小手をかざし、はるか竜宮を眺めてゐる絵があるやうだが、あんな亀は、海へ這入つたとたんに鹹水にむせて頓死するだらう。しかし、お祝言の時などの島台の、れいの蓬莱山、尉姥の身辺に鶴と一緒に侍つて、鶴は千年、亀は万年とか言はれて目出度がられてゐるのは、どうやらこの石亀のやうで、すつぽん、たいまいなどのゐる島台はあまり見かけられない。それゆゑ、絵本の画伯もつい、(蓬莱も竜宮も、同じ様な場所なんだから)浦島さんの案内役も、この石亀に違ひないと思ひ込むのも無理のない事である。しかしどうも、あの爪の生えたぶざいくな手で水を掻き、海底深くもぐつて行くのは、不自然のやうに思はれる。ここはどうしても、たいまいの手のやうな広い鰭状の手で悠々と水を掻きわけてもらはなくてはならぬところだ。しかしまた、いや決して物識り振るわけではないが、ここにもう一つ困つた問題がある。たいまいの産地は、本邦では、小笠原、琉球、台湾などの南の諸地方だといふ話を聞いてゐる。丹後の北海岸、すなはち日本海のあの辺の浜には、たいまいは、遺憾ながら這ひ上つて来さうも無い。それでは、いつそ浦島さんを小笠原か、琉球のひとにしようかとも思つたが、しかし、浦島さんは昔から丹後の水江の人ときまつてゐるらしく、その上、丹後の北海岸には浦島神社が現存してゐるやうだから、いかにお伽噺は絵空事ときまつてゐるとは言へ、日本の歴史を尊重するといふ理由からでも、そんなあまりの軽々しい出鱈目は許されない。どうしても、これは、小笠原か琉球のたいまいに、日本海までおいでになつてもらはなければならぬ。しかしまた、それは困る、と生物学者のはうから抗議が出て、とかく文学者といふものには科学精神が欠如してゐる、などと軽蔑せられるのも不本意である。そこで、私は考へた。たいまいの他に、掌の鰭状を為してゐる鹹水産の亀は、無いものか。赤海亀、とかいふものが無かつたか。十年ほど前、(私も、としをとつたものだ)沼津の海浜の宿で一夏を送つた事があつたけれども、あの時、あの浜に、甲羅の直径五尺ちかい海亀があがつたといつて、漁師たちが騒いで、私もたしかにこの眼で見た。赤海亀、といふ名前だつたと記憶する。あれだ。あれにしよう。沼津の浜にあがつたのならば、まあ、ぐるりと日本海のはうにまはつて、丹後の浜においでになつてもらつても、そんなに生物学界の大騒ぎにはなるまいだらうと思はれる。それでも潮流がどうのかうのとか言つて騒ぐのだつたら、もう、私は知らぬ。その、おいでになるわけのない場所に出現したのが、不思議さ、ただの海亀ではあるまい、と言つて澄ます事にしよう。科学精神とかいふものも、あんまり、あてになるものぢやないんだ。定理、公理も仮説ぢやないか。威張つちやいけねえ。

――「浦島さん」


ジェフに比べると、お前は酒でも飲んでんのかとおもわれる太宰の方が、結局怒りを買うことを書いていると思うのである。ジェフの相手は様々なるヨーロッパのイデオロギーなのであろうが、こんなのに比べると、大日本帝国の方がおそろしい空間なのである。もちろん「近代の超克」なんかはインテリの与太だとしても、上の副題のように、日本語に移された近代は百鬼夜行なみの殺傷力を持つのだ。

そういえば、殺傷力といえば、テクノロジーである。そもそもテクノロジーなんてのはいろんな意味で殺傷能力が高いものなのだ。いんたねっと、すまふぉ、AIはなんか巨大さみたいなものが感じられないのでこちらも優しい態度で付き合ってしまうが、基本的にこれはマジンガーZみたいなものだと思った方がよく、「こらーかってにうごくな生意気だぞ」みたいな態度が正しい。現代では、第一次世界大戦前からはじまるテクノロジーの文字通りの原爆化の隠蔽が常に行われているのである。マジンガーZ自体がそもそもそうなのである。最近『劇光仮面』という作品が、実際の特撮技術でさえ、殺人の手段としてのテクノロジーをなしていることを暴いて傑作であった。

そうでなくても、我々の生活社会はテクノロジーに殺人の代わりの贈与を要求する。「ジョジョの奇妙な冒険」で、あるスタンド能力で壊して治すみたいなのがあったとおもうが、あれは医学のメタファーとしてすぐれている。基本、医者も壊す人であり、治すのはあとである。医学だけではない。教育も、基本壊して治す行為である。殺人の後の蘇生=組成なのである。近代はとくにそれを何か人権とかなにかで穏やかな行為に認定して危険性を隠している。

今日の授業では、物理学者・菊池正士の「近代の超克論」への回答に対する大批判を行い、戦時下の科学的正論のやばさを人文学者として断固決然、勢い余って林房雄まで擁護しかけて戦争反対を唱えたてしまったが――太宰とは違い、まだ口が動く段階なのだから、問題は様々な側面から指摘されるべきなのだ。

――我々が生み出した、人文的なものも、科学も本来的に我々の生活とは違うのである。文学はそっちにつくべきだ。例えば、今日のお昼、大学のキャンパス内でわたくしの服に夏ウンコを落とした鳥類に告ぐ、お前の寿命はおれよりもたぶん短い。4月から、鳥のウンコがやたら私めがけて攻めてくるのであるが、もしかしたら北朝鮮が核兵器の小型化に成功したのかも知れない――こんな世界に我々はつく。


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