★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

〈世界〉の生成――緡蛮黄鳥、止于丘隅

2023-07-05 21:32:17 | 思想


詩云、邦畿千里、惟民所止。詩云、緡蛮黄鳥、止于丘隅。子曰、於止、知其所止。可以人而不如鳥乎。

至善は止まるべきものとしてあった。登るものというより落ち着くところである。これを如何に表現すべきか。緡蛮(めんばん)と鳴く鶯が丘隅に止まっている、という詩は、そんなもんかねというかんじであるが、これに対する孔子の言が良く、「そんなめんばん鶯でさえ止まるところをちゃんと知っている。人であるのに鶯に負けてイイノ?」と。

私の独断によれば、四書のなかで、やはり「論語」はよいとおもう。比喩を説教として使うやり方が巧妙である。上の場合、鶯にたいするかわいい気分を人に及ばせて、至善が持っている肩の力がぬけた自然な気分がよくでている。比喩をただの類推みたいにつかうインテリゲンチャはかならず説得に失敗する。すなわち、話が下卑た感じになるのだ。聖書なんかをよんでみるとイエスはその点、なんか上手な気がする。イエスが目の前にしていた風景は、しかし、孔子よりも砂漠じみていたに違いない。木々の上の鶯よりも天が直截に彼の目の前に合った気がする。これに対して、うっそうとした木だけでなく様々なオブジェが並んでいるところがある。

 二人が帰って行く道は、その路傍に石燈籠や石造の高麗犬なぞの見いださるるところだ。三面六臂を有し猪の上に踊る三宝荒神のように、まぎれもなく異国伝来の系統を示す神の祠もある。十二権現とか、神山霊神とか、あるいは金剛道神とかの石碑は、不動尊の銅像や三十三度供養塔なぞにまじって、両部の信仰のいかなるものであるかを語っている。あるものは飛騨、あるものは武州、あるものは上州、越後の講中の名がそれらの石碑や祠に記しつけてある。ここは名のみの木曾の総社であって、その実、御嶽大権現である。これが二柱の神の住居かと考えながら歩いて行く半蔵は、行く先でまごついた。
 禰宜の家の近くまで山道を降りたところで、半蔵は山家風なかるさん姿の男にあった。傘をさして、そこまで迎えに来た禰宜の子息だ。その辺には蓑笠で雨をいとわず往来する村の人たちもある。重い物を背負い慣れて、山坂の多いところに平気で働くのは、木曾山中いたるところに見る図だ。


長野県で京都学派がウケけたのはそりゃま偶然の要素を排除できない。しかし、佐久の生まれであった竹内好、藤村の「夜明け前」、松本出身の大澤真幸の「〈世界史〉の哲学」シリーズ、なんとか高原の生まれの新海誠のアニメとくると――〈世界〉とか〈近代〉とか〈超克〉だかは信州から生じてくると言わざるを得ぬ。岩波茂雄だけでなく、落合信子さんやキャンドルジュンをくわえてもよいぜ。様々な神々が、文字通りの壺中の天の状況のなかで世界を想像する。藤村の主人公も、世界の一部の日本に外部を感じている。そして自分の周りも様々な異物で溢れていた。それらは過去のなにかであるが現役の何かである。――わたしにおいても、高度成長以後も足踏みオルガン、藁葺き屋根、白黒写真などが現役だったところからして、こんな田舎に育つとまずもって外部にある世界や現代に追いつくために自分の現代を超克しなければならないのであった。というわけで、常に「世界」に追いつくために自らの何かを超えるということであるが、――何のことはない近代の日本の姿であった。で、それを否定しようとすると世界の〈超克〉が自分への回帰として経験されるわけだ。


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