
九三 日昃之離。不鼓缶而歌。則大耋之嗟。凶。
九四 突如其來如。焚如。死如。棄如。
西に太陽が傾けば、缶を叩いて歌を歌うべしそうしなければ老残の歎きがある、凶である。突然の敵の来襲。焼かれ殺され捨てられる。明治の文学者や大江健三郎とか、たくさんいるのであるが、老人を馬鹿にして、自分が老いたときにバチが当たっている。我々の人生はかくも散文的である。
M・セールが『作家、学者、哲学者は世界を旅する』のなかで、バカロレアの試験は若人に桂冠をするトーテミズムだと言っている。日本もセンター試験があったころは、おれも人生で唯一センター(違う)になったと思ったものであるが、今はなんのあれもないので、思い切って、大学入試を「かわいい猫ちゃんの大乳歯」とでも名づければよいのでは。若人達を閉じ込めて試験をやらせるのであるから、何かの栄光を授けるべきだ。
もっとも、当の若者達がそれほどたいしたものではないのは自分も若者だったから分かる。そして、あまり我々の頃と彼らは違っていないのである。――といっても不安になったので、最近『別冊マーガレット』をはじめて読んでみた。時間の流れからせりふがシャボン玉みたいに浮いており、それらがかわいい絵とのウルトラ対位法みたいでほんとに読むのがしんどかった。いつも活字ばっかり読んでいるので、すごくしんどい。しかしこれは彼らが経験している現実に近いかも知れない。あと、こういうマンガの男子というのは、明らかに大きくて恐怖を与える存在でそれに対する屈服と恋愛はぎりぎりに併走していると思う。あと、泣くとそのあとだいたいいいことがある。なにかおかしいな、少女まんがってこんなかんじだったかな。。視点がその主人公の少女たちと同一化するから、恐ろしい背の高い男子たちへの屈服は骨身に染みる。恋愛はこんなのでほんとにイイノカ。
中年男性のおれはなにをすべきだろう。まだつまみ読みしかしていないが、同い年の東浩紀氏の『訂正する力』を買った。「訂正する力」とは、やっぱり読む力とか書く力とかコミュニケーション能力とかみたいな「力」の一種であることはたしかなので、いっそのこと『訂正するど根性』とか『訂正するぞ50代』とか『さてとおれも訂正するぞ』みたいな感じの方が良かったのではあるまいか。
学生でも我々でも膂力のなさが顕著なときは、そのコスパだかタイパみたいな脳みそ的問題だと考えない方がよいと思う。だからといって体を鍛えればよいというわけではない。やはり膂力は根性としか言いようがないものだ。我々の世代も、上のポストモダン新人類にヘコヘコして、努力すりゃいいというものではないとかいってた結果が、努力する才能がない連中を威張らせただけというのが最悪だ。
内田樹的な言説もこのような焼け野原には通用しない。自立するためには他人に依存できることが大事みたいな、そりゃまあそうだわなという尤もらしいことが金言となるのは相手と状況によるのである。で、そんな場合はほとんどない。普通に考えて、ほとんどの場合これだけ言ってもなにか言ったことになるはずがない。われわれは、もっと一つ一つのことをマジメにやるほかはなかったのだ。