★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

如来の掌と科学

2024-08-08 23:50:30 | 文学


「吾南海に往きて菩薩をたのみまゐらせ、かの人参樹を活さんとす。はやく用意をなし給へ」と云ふ。大仙則仙徒仙童に命じ、後園をきよめ、菩薩を乞うて人参園に入れまゐらせ、衆人皆々後に引そひ立入りたり。菩薩頓て行者をまねき、渠が手の心に起死回生の符を畫き瓶中の甘露をして是をひたし、樹の根に拳をさし入れ給へば、忽一道の清水湧出たり。菩薩仙童に命じて、其水を玉碗にて多くくみ出し、行者、八戒、沙僧等に仰せて、かの大木を引起させ、玉器の水を楊柳の枝にひたし、樹にむかひて澆ぎ給へば、暫時の内に𦾔のごとくに生茂り、二十三個の人参果枝につらなり、前よりもあざやかなり。


世界に荒唐無稽な話はとてもおおいが、「西遊記」は滅茶苦茶な悟空を超える力を如来だかに想定してしまったので、もう悟空もふくめて世の中全体がなんでもかんでも荒唐無稽でありうることになった。荒唐無稽さは所詮如来の掌の上のことであって、その愚かな世界の壁を作っている如来のほうはたぶんまともであろう、ということで。

対して、近代社会のSFは、荒唐無稽さにむしろ科学的真実らしさという箍がかかっている。例えば、『ムー』の五二三号に「源氏物語」の特集があったので読んでみたがかなり普通であった。いまやってる大河ドラマのほうが荒唐無稽である。わたくしは、道長と紫式部が寺で子作りしてしまいましたみたいな普通のことではなく、『ムー』には、光源氏は天皇とエイリアンの子どもだったとかそういうはなしを期待していたのである。しかし、それよりも、紫式部の子孫が実は天皇であるとか、いなかの地主がワシの家は藤原家の末裔だとか仙石家の末裔だとか言っているのと同じではないか。


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