孫行者、今は心安して、鐵棒を振うてかの老翁を一討に打殺せば、一陣の靈光と化し、四方に散じて飛失せたり。 行者鐵棒突きて三歳に向って曰く、「父、今こそ妖精を實に打殺せり。ちかよりて見給へ」と云ふ。三蔵いよいよおどろき、馬をよせて見給ふに、一惟の骷髏地に倒れたり。三蔵行者に問うて曰く、「是は抑々何ぞや」行者の曰く、「渠原來倒れ死したものの魂、此所にあつまりて妖をなす。此吾に打たれて本相をあらはしたり」八戒かさねて申しけるは、「師父、行者の申すことを信じ給ふな三たび人を打殺しぬれど、師父の金箍咒を唱へて責め給ふことを恐れ、法術を以て屍をかくし、骷髏となし、師父の眼を掩ふものなり」 三蔵此八戒が言を信じ、行者がふるまひを恨み、嘘つて曰く、「今に至て兇性を改めず。豈我が徒弟となりて西天に至り得んや。早く故郷へ帰り去るべし」行者の曰く、「吾妖精を殺して師父の害を除きまゐらするに、一個の獃子が申すことを信じ、我を逐ひ給は何事ぞや。抑我兩界を救ひ出されてより以来、古洞を穿ち深林に入り、千辛萬苦して妖魔を除きしも、畢竟烏盡きて弓藏れ、 兎死して狗烹らると云ふ、世の諺もおもひ合され候」といふ。
三蔵がなぜ悟空の頭に箍をかける正解を導きながら、悟空のやってることが分からないのか。三蔵がでかい目標を持っていることと関係があるのか?そうではあるまい。やはり三蔵が悟空の分かることを分からないに過ぎない。しかしだからといって悟空が三蔵より優れているとは言えない。
しかし、こんなことが分からなくなっているのが現代であり、三蔵と悟空を並列的に評価し、結句、悟空をボス猿として崇めてしまったりするわけである。
そういうことを許さないためには、少しの合理的修正とか人をバカにしない工夫とかが自然に出来ることが重要であるが、それができない組織、――というか人の集まりは、かならず「改革」とかで人を貶めて溜飲を下げるやり方に移行してゆく。
AIは新たな悟空みたいなものである。難しい議論だけれども発達障害者なんかも新たな悟空なのである。――こんなときに三蔵の側がなにを思うか?例えば、AIは恋愛が分かるかみたいなお題はよくあるけれども、正直なところ、恋愛は分かりやすい方なのである。分かりやすい方じゃなきゃこんなにいろんな小説に書かれるわけがない。そもそもAI脅威論は人間が頭良いことが前提になっていることが多いんだが、どうみてもそこらの昆虫よりも愚かにみえるという側面を見ないふりをしているから議論が一面的になる。