八戒頭をなで「我徒が武藝かれに及ばず。迚も師父を救ふ事能はじ。不如是より散火せんには」とて又逃行かんとす。白馬また衣を咬とどめ、「師兄何ぞかく臆病なる。 那妖恠を殺し師を救はんものは、大師兄孫行者なり。早く花果山に至り、大師兄を請じきたれ。但し今師父の難に遭給ふ事を語らず、只師父一朝の怒に他を逐放せしを悔み、常々戀々として慕ひ給ふと、欺き哄しきたれ。他きたりて師父の難を見ば、かならず妖恠を除き、師父を救べし」と諫励しければ、八戒終に諾し、身を跳らして雲に上り、花果山をさしてぞ飛行きける。
アメリカにもそういえば空を飛ぶ豚――いやちがった、あれは象であった――がいた。昔「トンでぶーりん」とかいうアニメーションもあったし、押井守のアニメーションでも豚が飛んでいた。ピンクフロイドのジャケットでも飛んでいた。宮崎駿の飛行機に豚が乗っていてかっこいいのは豚だみたいなことを言っていたような気がする。
昔わたくしが耳を囓った枕も豚であった。
上のように、悟空を呼びに行く豚は雲にも乗れるのである。
――世の中、かような夢を見すぎていて、普通に豚は我々に食われるのが関の山であることを忘れる。エライのは、一番最初に豚を虚構で飛ばした奴である。ありえない一点でも、我々が抜けられぬことになることがある。
世の中の革命志望者達は、あまり自分たちのやっていることがこの「最初の豚が飛ぶ」ことになるかどうかを気にしない。我々はそれを日常の時間の延長だととらえ過ぎているのかも知れない。例えば、学問や授業だって日常ではなく革命に近い。模擬授業をたんとやれば授業がうまくやれると思っているレベルの人間が教師をやってはならないのは、そういう事情が分からないからだ。授業は革命でありそれがきつすぎる言い方というなら創造である。
この前、田島列島『子供は分かってあげない 上』を読んだ。田島氏の作品は、夏休みが部活で忙しかった私にとってはいろんなことがあっても基本敗北としてのユートピアに見える。そこでは、子どもたちの親たちが起こした事件(不倫とか再婚とか)を日常に接続させる仕事が行われているが、それは親のやったことに対して良いことと言えるのかどうかはわからない。人生は、子どもたちが考えているより長く、自分の意志によってコントロール出来ず、しかし何者かが何かを引き起こさずにはいられない。
藤村の「夜明け前」は、読んでない頃想像していたよりもかなり簡素で、娯楽的ではないがしかしそういう傾きはもつ作品である。やはり藤村は柳田ではない。しかし、藤村は柳田と違って革命や新しい言葉にこだわっている。そして、自分の出現以前に敗北ではあったが一点の革命が行われている可能性を見つけ出そうとしている。
血盟団事件を主として扱った、テロ・オニムバス映画『日本暗殺秘録』の最後には、「そして現代、暗殺を超える思想とは何か」って文字が出ている。しかし、やたら思想で超えるのも問題かも知れない。確かに、当時ですら思想で超えている奴はたくさんいたし、八十年代になってからはどんどん超えていった人間で溢れている。けれども、暗殺が目指したように――暗殺がある種の起点になって世の中が変容してゆく過程そのもの超えるのは容易ではない。――そこで飛ぶ豚である、ということになるのかどうか。わたしには全くわからない。
たぶん、違うと思うのである。