孫行者、此時東洋大海を過ぎて、遂に花果山にかへり見れば、山中すべて荒れすさみ、峯倒れ、岸崩れ、むかし見し山とも覚えず。暫くあきれてたたずむ處に、坡の陰より七八個の小猿走り出で、「大聖帰り給へり」とて、我先に禮をなす。行者問うて曰く、「我暫く帰らざる内に、何としてかく山中の荒れはてたるぞ」小猴們泣いて申しけるは、「近來大勢の人此山に入りて、我我眷族を獵取り、或は煎て是を吃ひ、或は跳圈せてなぐさみとなし、敢て一個の猿も頭をさし出すものなし。大聖憐を垂れて是をすくひ給へ」行者聞きて大きに怒り、心安くおもふべし。此猟人を鏖にして你們が仇をむくふべし」とて、山の上に多くの石を置き、人の来るを待ちゐたり。時に南の方より、数千人の猟師、鷹を居ゑ、犬を走らせ、鑼鼓を鳴し、花果山に臨んで押よせたり。悟空是を見て、山の巓に立ちあらはれ、咒を唱へての巽の方に向ひ、一度氣を吐下すに、忽ち狂風吹起り、那積貯へし砕石、雨あられと飛散りて獵人を討つほどに、或は頭を討れ手足を損じ、死者の者数を知らず、散り散りに成りて迯失たり。
映画「サンダーバード6号」で、主人公達が助かったあと、「そういえば執事のパーカーはどこいった?まあいいか。」みたいな笑いがあり、執事は人間じゃねえのかよと思った。そういえば、その執事、むかし犯罪者だったという設定なのであった。でもひどい。
いろいろ見てきた結果おもうのは、――文学や思想の威力は人間が管理職みたいなものになったときにあらわれる。「サンダーバード」を観ているだけでは、管理職を真面目にやってりゃ悪を懲らしめても良いことになりつづけるが、「西遊記」でさえ、如来以外はほぼ悪人であって、読者は花果山に帰った悟空が猟師たちを鏖にし殲滅しても、大して溜飲を下げることはない。悟空も罪人だからである。
中沢新一のレヴィ・ストロース論『構造の奧』の最終章は、仮面論であり、南米にみられるサンダーバードの仮面が、日本でも山姥伝説となってあらわれているみたいなことを書いていた。人形劇・「サンダーバード」は、英国の作品であるが、――もしかしたら、英国が先んじて近代のほころびを見せていたのがこの特撮だったかも知れない。しかしこの作品が人間と世界を人形的な機構で作り直す試みを驚くべき完成度でやり遂げているとこがさすが、蒸気機関で近代を始めた国の意地であった、――しかし、それを真似した日本では、ほぼ超近代的、土俗的仮面劇になってしまった。
パラリンピックは、ヒューマニズムを錦の御旗にしたメカニズムの勝利とともにあり、ますます肉体を機械と化した近代文明の祭典となったオリンピックである。わたくし、今年に入ってから異様にスポーツなどに興味がなくなったと言ってたら、細が疲れてんじゃない?と言っていたが、それはあるかもしれない。スポーツというのは娯楽的である以上に、一定の体力を観る者に要求している。力をもらいましたみたいな感想には、要求されているのを、与えられていると錯覚している面がある。