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自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している(Wundt,Grundriss der Psychologie, Einl.§I)。しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已に純粋の経験ではない。
西田幾多郎の「純粋経験」(『善の研究』)の一節。「純粋経験」を禅に結びつけたり、学生運動にむすびつけたりとまあいろいろあるだろうけれども、――むかし、これは病気の体験のことを言ってるんじゃないかと思ったことがある。病気は病名が病院に行ったりすると分かったりするわけであるが、それは病気の経験それ自体を変えるわけじゃなく、「意識状態を直下に経験」しつづける他はないからだ。「最醇」という言葉は別に「豊潤」ではない。たんに混じりけのない、と意味であり抽象である。
わたくしは、喘息やアレルギー反応から人生を出発した。その経験が最初の経験であり、意識に残っている経験である。意識があるから純粋経験でないのではない。意識があるから純粋経験なのである。それがなんの「自己の細工」もありようがない、経験し続ける意識――それが病の意識である。
安部公房がむかし、治癒した後、病気だったときの意識状態が懐かしくなると言っていた。これも純粋経験への懐かしさである。医者である安部でさえそうなのだ。
彼は小説家だった。下手な小説家だった。その証拠に実感を尊重しすぎた。
彼は掏摸の小説を構想した。が、どうも不安なので、掏摸の顔を見たさに、町へ出た。
ところが、一人も掏摸らしい男に出会わなかった。すごすご帰りの電車に乗って、ふと気がつくと、財布がない。掏られていたのだ。彼は悲しむまえに喜んだ。
「これで掏摸の小説が書ける」
彼は飛ぶように家へ帰った。そして机の前に坐ると、掏られたはずの財布がちゃんと、のっている。持って出るのをうっかり忘れていたのだ。
彼は原稿用紙の第一行に書かれている「掏摸の話」という題を消して、おもむろに、
「あわて者」
という題を書いた。そして、あわて者を主人公にした小説を書き出した。
――織田作之助「経験派」
思うに、何故彼は自らスリをやってみようと思わなかったのであろうか?不思議で仕方ない。