遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿妻籠の本陣、青山寿平次の妹、お民という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。この忰の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。早くも青年時代にやって来たような濃い憂鬱が半蔵を苦しめたことを想って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに代を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山監物を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。二人の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。兄は妻籠に。弟は馬籠に。何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、末頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。
――「夜明け前」
半蔵は馬籠の本陣の息子だったが、かれが学問をやることは馬籠の外との関係が重要であった。父からも学んだが、上田や中津川の知識人から学んだのである。それが国学だったわけであるが、かれにとっては外部としての国学だった。で、それほど早期教育でなかったこともあって、十代のおわりになって更にいろいろ学ぶかというときに黒船が来た。外部に外部が重ねられた。もともと木曽は外部からの浪をそういう風に受けがちなところなのであろうが、その二つの外部が相反するものであったことが半蔵の運命を決めた。彼は変動する外部の問題に楔を打ち込むべく、座敷牢に引きこもることになるわけである。
むかし木曽で西洋音楽を習っているとき、音楽に対して日本語が嫌だなあと思い始めた感覚を今でも覚えているが、現在、國文の世界にいてもまだそれがある。――と考えてみると、英語も私は嫌なのである。ここには、なにか閉ざされているところにいる前提があって、それによる複雑感情が面倒だという屈折が働いているようだ。これに対して、日本の「近代西洋音楽」を世に広めた片山杜秀氏とかはその屈折がない。考えてみると、氏の日本語はなんかシン明治時代のそれみたいだ。明治以来、やたら新なんとかみたいな事をしてきた連中は、半蔵のようになる恐れがない。
そういえばわたくしの祖父は奈良井?からの養子で、祖母も田立から嫁に来ている。こういう場合、木曽福島はもともと地元ではないどころか、何か強制的に連れてこられた土地みたいに思っていた可能性がある。子どもや孫達にもそんな感覚がいくらか感染するんじゃないかなと思ったこともあるのだ。木曽にかぎらず日本の田舎もんにはこういう場合が多いかもしれない。半蔵は、となりの村の本陣の娘と結婚するわけであるが、これは家が本陣どうしだったから成立したはなしで、本陣がそのほかのいろいろなものに変わってもおなじことが起こり、隣の村でなくても起こるのである。
あと気になるのは、戦争である。爆弾が降ってこない代わりに戦時下の田舎はまた別のしんどさが発生した。田舎の同調圧力のいくらかは戦時下の統制が起源である。もちろんもっと伝統的な何かも含めた、そんなゴタゴタをいやがって、戦後にそこから飛び出した人間はかなりいるはずである。柳田國男がくわしくどこかで語っていたように思うが、とにかく、「合理的」に人を移動させる、移動することに我が国の田舎もんはかなり躊躇がない。むしろ、勇気を持って故郷に立てこもることが必要な場合だってあるくらいである。
その点、映画「二十四の瞳」は確かに欺瞞的な部分もあったが、地方に踏みとどまり教師を続けるのはすばらしいことだというような感覚を戦後の優等生達に与えた面もあったと思われる。いまは、この映画を語るときには、つい、子どもに寄り添う理想的人格の称揚みたいな、アホウみたいなかんじになってしまう。が、当時は信用を失った国民教育を戦中生まれのわたしたちが田舎から立て直すみたいな心意気が感じられたんだと思う。戦争は、女性が職業婦人として皇国教育を担った問題を作り出しちゃってたのでよけいそうである。もうたぶん誰かが研究していると思うけれども、男の職場に入ってきた「女の先生」が児童になめられないために必要以上にコワモテになる問題が、戦時下でも起こっていたはずであって、大石先生はそれへのアンチテーゼなのである。現在に至るまで、ある種の子どもの「男女差別」というのはすごいのであって、戦争と同じく困難な問題である。