今日も細々したことが多かったが、――学生のレポートのコメント付けとかがまだ残っているのが悲しい。こういう作業をしていると、教員は個人の作業をしている時にでも、上司とか友人とかに精神的に依存して行為しているのが分かる。一人では何ともならないのが現状である。確かに多数派に付いた方が安心というのにも、そういう意味では一理あるのである。あるだけだが。
最近は、他人に寄り添う感じの人か、自分に寄り添う人ばっかりが不気味に目立ってて、精神的に依存(というより信頼か?)しても大丈夫と思う人があまり見つからない。とはいえ、みんなそんな感じで思っているのだろうから、いい歳になってきたわたくしなんかも頑張らねばならないと思う――。思うだけだが。
ワーグナーやバッハの研究で知られた三宅幸夫氏も亡くなられたそうである。こういうタイプがいなくなった世の中を、研究者はそろそろちゃんと想像しておいた方がいいと思う。研究者がただの訳知り反映論者、というか「スピード感あるツッコミ専門職」みたいな妙なポジションに追い込まれつつあるのはみな実感しているところだろう。特に人文系の一部は、制度や権威に対して「誰が決めたんだよ~」如き正義の中一みたいなポジションに頼った結果、言うことがなくなっている訳である。そりゃそうだ、夏目漱石やベートーベンはいまや制度的権威だろうが、彼らは何かの制度や権威によってのみ「心」や「月光」を創ったわけじゃなし――、創造の世界は権威や制度によってどうにかなるほど甘くないわけである。神秘主義を批判する者がしばしば本物の神秘主義者であるように、権威批判が好きな者に本物の権威主義者がいることは、世の中の常識というものであって、「対案を示せ主義」みたいなアホな感じに変形されてしまっているが、何か足りないものがあるといろいろな人が感づいてはいるのである。
学者がもっていた「分析の深さ」、即ち「認識の深さ」というものの実態をちゃんと引き継ぐのにわれわれは失敗しつつある。学者だけではない、教員や親といった存在にもいえることではないだろうか。
とはいえ、過ぎ去ってよかったと思うものも沢山ある。
甲子園大会のニュースを見ていたら、応援の吹奏楽部がまだ「宇宙戦艦ヤマト」をやっていた。
日本人の皆さん、この曲がベルリンフィルのモーツアルトやマーラーのあとに演奏されたと冷静に想像してください。わたくしも想像してみましたが、――
わたくしの心に浮かんだせりふは、
でした。