もう一つの鉢からは、青い色の花が咲きました。しかし、このほうは、珍しく、元気がよくて、幾つも同じような花を開きました。そのうえ、ほんとうになつかしい、いい香りがいたしました。
のぶ子は、青い花に、鼻をつけて、その香気をかいでいましたが、ふいに、飛び上がりました。
「わたし、お姉さんを思い出してよ……。」こう叫んでお母さまのそばへ駆けてゆきました。
「わたし、あの、青い花の香りをかいで、お姉さんを思い出したの、背のすらりとした、頭髪のすこしちぢれた方でなくって?」といいました。
「ああそうだったよ。」と、お母さまは、よくお姉さんを思い出したといわぬばかりに、我が子の顔を見て、にっこりと笑われました。
――小川未明「青い花の香り」
ブルジョアジー的なものはどこにでも転がっている。明日は、甲子園大会で長髪ブルジョア慶応と野球エリート坊主仙台育英との戦いということでマスコミがなにやら攻勢をかけている。まずは、このバイナリに突入する前に、その形成を回避しなくてはならないが、つい全体を一色に染めるか、ばらばらでいいといいながら抜けがけを容認するか、みたいになりがちである。そもそも我々は後ろも先もじっくり眺めることが重要である。――芥川賞が大騒ぎなのは、野球の甲子園が大騒ぎと一緒なところある、もっと後のあれがあるのに。。。と言う気分である。
野球にも幸運を持ったひとすなわち天才はおり、作家でもそうだ。甲子園で優勝する類いである。例えば、牧野富太郎は天才だったが矢田部良吉は秀才で、みたいな記事があったが、それは間違いで、天才は矢田部良吉のほうである。むしろ牧野の方が秀才の異常性が表れている。清原より落合が異常だったのと同じである。
ときどきネット上でも「トロッコ問題」が問題になるのだが、――まず止まりゃいいし、んで「塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。」(芥川龍之介「トロッコ」)としか言いようがない。もちろん我々は止まれないからだ。だからといって意識上の停止を否定すると、過去も未来もなくなるのである。
問題は、われわれの人生を超えた長さを社会がどうあつかうかのほうだ。例えば、日本の封建制については勉強したことがないが、跡継ぎ問題が大きい要素なのはわかる。父方の祖父はたぶんめんぱ屋の跡継ぎとして養子に入って結局国鉄職員になった。これが祖父の性格にも影響したし子どもたちや孫の性格にも影響したはずであると思う。そこには日本の資本主義の変容とラディカリズムの意識の関係がほのみえる。わたしの業界に引きつけて言うと、祖父とそれ以降の子どもたちのメンタリティは、近代文学と学生運動的なものの連続と断絶を示しているようだし、その果てにはフールでラディカルな資本の論理への環流する準備まであるわけだ。それは流民的である。対して、跡継ぎを必死につくらなきゃいけない医者とか地主とか会社の場合は、別の心的な論理が働き続ける。そこには、度しがたい権威主義を持つ可能性がある同時に、資本のコントロールから離れているだけ別のゆるやかなヒューマニスティクな知的探求が同居する可能性がある。それは貴族的なものである。母方の方はそんな匂いがするのだが。。。周囲を見渡してみるに、最近は、権威主義的な阿呆が増えたように思うので、もう無理だと思うが、その可能性をまだ戦後までは引きずっていたのだ。戦後の、貴族的ヒューマニズムと流民的ラディカリズムの結合はその可能性のなかで起きた。