学生の卒業論文の書きっぷりをみてて思うのは、それに耐える体力作りをやってないと、とてもじゃないがもたないという単純な事実である。プロ野球選手が高校野球と違うのは、職業として一年間試合をやり続けなければならず、その体力があるかないかなのである。一年間以上読んで考え続けるのもある種の体力で、読書の走り込みが必要だ。はじめから考えて書ける人は少ないから、最初は、何も考えない連続的読書とひたすら注釈とかひたすら口語訳みたいなのがいい。はじめから考えることをやっちまうと、考えるだけで、その実なんもかんがえられないので、疲れてしまう。考えることの負担を減らして読んだり書いたりみたいなのが大学でも必要なのである。大学のカリキュラムから、演習を減らして無意味なグループワークみたいなものを増やすと、この体力をつけられない。
もちろん注釈や口語訳だって大変なことで、――しかし、多くの我々の性で、狭い範囲をまずは設定しないと頭が働かないのであった。それが難しいなら、翻字をひたすらやるとか、それも無理なら鷗外の短編を原稿用紙に写すとかでもいい気がする。やってみればわかるが、これだって練習しないとできないのである。
こういうランニングとか素振りみたいなのをやってないと、卒業論文で急に回転させようとした自分の思考は焼き切れてしまう。それに、教員や同じゼミ生の言っていることがわからなくなる。これは知識とか思考力のせいもあるだろうが、素振りをやったことがないやつが素振りのことを説明されてもわからないのに似ている。その意味では、経験や実感みたいなものと無縁な知識や思考は本当はありえないような気がする。あり得るとしたら大概勘違いか思い上がりである。学生によっては論文らしいものを書くのは無理だと書く前から判断される場合もあるけれども、どこまで出来るのか、どこまでの能力なのか学生教員ともに具体性に直面するのは大事で、それも経験や実感の存在を重視するということである。そして、そこからしか倫理みたいなものは発生しない。
そうしないで生じた倫理は、せいぜい教科書などにしか載ることを許されない「倫理のせりふ」にすぎない。
しかしそうはいっても、人文学の世界では、上の基礎練習を十分していったとしても、まったくうまくいかない場合もあって、頭というのはほんとに特殊な筋肉だと思われる。私見では、うまくいかない場合は、頭が悪いと言うより、ほとんどが外から注入された「思想」がおかしくなっている場合である。道徳的金言の効用というのも、すごくいろいろな現れ方があるようだ。考えないための刀みたいに使う人というのが案外多く、考えるための筋肉が硬化してしまっている。金言は正しいことになっているから、刀として使う場合は、人間のコンプレックスをはじき飛ばす効果があり、非常に傲慢な人間を作り出す。
やっぱりコンプレックスだと思うの。たまに学校へ行けば、授業の内容はチンプンカンプン。私と同じ歳の人がみんな知ってることを私は知らない。だから「知らないじゃ済まないぞ。そんなら自分で勉強しなきゃ」っていう気もちですね。教科書は一人で読んでもわかんないけど普通の本なら読めるから。
(高峰秀子https://twitter.com/HidekoTakamine)
高峰秀子のこの指摘は極めて重要である。昔も今も、教科書は読み物として成立しがたい。読み物だったら恥ずかしくてかけない、整合性がまるでない「構成と内容」だということである。特に国語はその精神が分裂していて、箇条書き的に記述できても、長い文脈をつくることができない。すなわち、教科書とTwitterは似ている。Twitterは、非常にくだらない内容の発言でも、それじたい金言化して書き手を慰撫する。論文は、エビデンスの存在=証明であるというよりも、長い文脈を作ることができるかという性格のものである。卒業論文は、いまや学校教育の教科書と世界の通信ツールに囲繞されている。