いろいろ仕事を抱えていたので、大晦日から元日はふらふらだったのであるが、なんとか元日の夜はぐっすり寝られたのである。とはいへ、昨日は初詣中に能登半島で巨大地震が発生、我々がとっくに天から見放されていることを実感する。
昨年のどんづまり、紅白がディズニーとコリアに侵略されているというどうでもいいメールが同業者からきたので、わたくしが論文の手をやすめおしっこに行ったついでに瞥見したら、――ディズニーのうたを浜辺美波さんと橋本環奈さんが、大和魂の叫びとしての
ネットでの評判をみるに、YOASOBIという歌手の「アイドル」というヒット曲のステージがなかなかよかったという。で、今年になってから録画を観てみた。この曲はアニメーション「推しの子」のテーマソングで、アイドルの虚飾ゆえの愛の獲得という紋切り型を歌っているのだが、某アイドル会社の人びとなしで、すこし韓国風に鍛え上げられたアイドル達がたくさん踊ったりしてアイドルの虚飾とは何かを示唆していたところがおもしろいアイロニーか何かだったのかもしれない。しかし、ボーカルのひとの御顔がその群舞のアイドル達に紛れてよく見えないのであってみれば福山とかミーシャとかのときにもレッツゴーヤング的な群舞をはべらせて、日本の芸能とは学芸会であって、学芸会的でなければ、――まあしかしそんなことはどうでもいい。
はいはいあの子は特別です
我々はハナからおまけです
お星様の引き立て役Bです
アイドル達はそのボーカルにそう歌われながら、その引き立て役Bを演じていた。そしてそれを観る我々が真の引き立て役なのである。NHKの演出はハナからそのボーカルの人への愛が目的であった。ところで、トリをつめたミーシャが年下だとわかり、三郎の祭だ祭だをばかにしていたのはエイジズムだと分かりました誠に申し訳ございません。
紅白歌合戦は、もうかなり前から行き詰まっているにもかかわらず、その持続によって、観ている人観てない人がそろって引き立て役Bになっている。
~わたしの紅白歌合戦の体験史~
1、ほぼ禁止されているテレビが見れるぞワーイ(小学校)
2、紅白とか学芸会かよ殲滅せよ(思春期)
3、そのためなのか年末の家族の団らんが半減(青年期)
4、下宿にテレビがない(修行期)
5、歌手の大半が年下になり震える(就職後)
6、紅白の時間の眠気に堪えられない(中年)
7、トリのミーシャが年下にショックを受けてむせる(いまここ)
行く年来る年に映っている人たちは紅白をみていないわけで、紅白をみない
芸能は我々の生活を普段から疎外しながら、同時に我々を疎外して生き残りもする。しかし我々の生活に寄生している限りは最終的には世間・生活に殺される運命にある。そういえば、ダウンタウンなどのお笑い芸人のことが話題になっていた年末であった。――坂口安吾ではないが、それが少なくとも少なくない人びとにとって文化的に面白かったとすれば彼らが俗悪なところから出現したからだと思う。しかし芸能界そのものは俗悪というより世間と同じく鄙俗なのだ。それは似ているがかなり違うものである。そこにいても俗悪さは徐々に失うのである。芸人の栄光と没落はそうやって常に起こる。俗悪さはモラルを否定するようなものとは違った一種の細かさを持っているように思う。それを鄙俗さは生活であるが故に殺してしまう。
アイドル、芸人、地震、――例外的事象について人間いろんなことを思うわけだが、それを認めるか認めないかみたいなところでうろうろしているべきではない。われわれのいろいろは地獄にも極楽にもいろんな風に通じているに過ぎない。